「なせば成る」の精神で、藩を救った改革者。諦めない。成し遂げる。それが上杉鷹山。
上杉鷹山(うえすぎ ようざん)は、江戸時代中期の寛延4年(1751年)に日向高鍋藩主の次男として生まれ、文政5年(1822年)に亡くなった、米沢藩(現在の山形県米沢市)の第9代藩主です。諱(いみな)は治憲(はるのり)ですが、隠居後の号である「鷹山」の名で広く知られています。
彼は、幕府から領地を削減され、莫大な借金を抱えて財政が破綻寸前だった米沢藩を、徹底した改革によって立て直した「名君」として知られています。

~未来を切り拓く覚悟。米沢藩再生の軌跡~
◆主な業績と改革の内容:
- 徹底した倹約: 自ら率先して質素な生活を送り、江戸藩邸での生活費を大幅に削減しました。食事は一汁一菜、普段着は木綿とし、奥女中も減らすなど、家臣にも倹約を徹底させました。
- 「三助の思想」(自助・互助・扶助):
- 自助(自ら助ける): 産業振興を通じて、領民が自力で生活できる基盤を築きました。
- 互助(互いに助け合う): 五人組・十人組などのグループを組織し、地域社会での相互扶助を奨励しました。
- 扶助(藩政府が手を貸す): 自助・互助で対応できない場合に、藩が救済するという方針を掲げました。
- 殖産興業の推進:
- 養蚕・絹織物業の振興: 米沢藩には生糸の原材料はあったものの、加工技術がなかったため、新潟の小千谷などから技術者を招き、絹織物の生産を奨励しました。これにより「米沢織」が特産品となり、藩の重要な財源となりました。
- 漆(うるし)、桑(くわ)、楮(こうぞ)の植林計画: これらの植物は漆器、養蚕、和紙の原料となり、長期的な視点で産業の育成を図りました。
- 薬草園の設置と製薬: 薬学の学者を招いて薬草園を設置し、藩内でほとんどの薬を製造できるようにしました。
- 鯉の養殖: 鯉の養殖を導入し、海に面していない米沢での動物性タンパク質の供給源を確保しました。
- 教育の重視: 藩校「興譲館」を創設し、藩士だけでなく領民の教育にも力を入れました。
- 人材登用: 身分にとらわれず、有能な人材を登用しました。
◆ 思想と人物像:
上杉鷹山は、細井平洲(ほそい へいしゅう)を師事、儒学に基づいた「民の父母」としての君主像を追求しました。その思想は、現代の「自助・共助・公助」の原点と言われています。
また、彼の残した「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉は有名で、これは単なる精神論ではなく、困難な状況にあっても諦めずに努力することの重要性を説きました。アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が、尊敬する日本人として上杉鷹山の名を挙げたというエピソードも知られています。
これは、鷹山の改革が、当時の米沢藩の状況だけでなく、普遍的なリーダーシップと経営手腕の模範として世界的に評価されていることを示しています。