原 敬(はら たかし 1856年3月15日~1921年〈大正10年〉11月4日)
第19代 内閣総理大臣(在任期間 1918年9月29日 – 1921年11月4日)
日本の外交官、政治家。位階勲等は正二位大勲位。幼名は健次郎(けんじろう)。号は一山、逸山(いつざん)。
外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。
『郵便報知新聞』記者を経て外務省に入省[1]。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。
陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と渾名された。
大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、大塚駅の駅員であった青年・中岡艮一に襲撃され、殺害された(原敬暗殺事件)。満65歳没。墓所は岩手県盛岡市の大慈寺。
有職読みから「はら けい」という読みが用いられるケースもある(原敬記念館、『原敬日記』など)。足尾銅山の副社長にも就いていた。
- 政友会の前総裁で、原との間にも確執があった西園寺公望は、原の死の一報を聞いて「原は人のためにはどうだったか知らぬが、自己のために私欲を考える男ではなかった」と述べている[6]。
- 山縣有朋は原の死に衝撃を受けたあまり発熱し、夢で原暗殺の現場を見るほどであった。その後「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と嘆いている。
- 平田東助内大臣は後年「元老は西園寺公を限りとし、将来は置かぬが宜し。原が居れば別だが、種切れなり」と評しており[8]、もし原が生存していれば元老となっていたと見られている。
シベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣が内閣総辞職に追い込まれると、ついに政党嫌いの山縣も原を寺内正毅の後継首班として認めざるをえなくなった。こうして、大正7年(1918年)に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされる。それは、「憲政の常道」に基づいて原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣の3相以外は全て政友会員が充てられたためであった。
原内閣の政策は、外交における「対英米協調主義」と内政における「積極政策」、それに「統治機構内部への政党の影響力拡大強化」をその特徴とする。原は政権に就くと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図った。まず、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものである。そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策)を組閣後早々に打ち切った。
さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4か国による新4国借款団(日本の中華民国への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を、対英米協調の観点から決定した。日本も連合国の一員として参戦し戦勝国の立場となった第一次世界大戦の後始末をするパリ講和会議が開会されたのも、原内閣の時代だった。この会議では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの提唱によって国際連盟の設置が決められ、日本は常任理事国となった。しかし、シベリア出兵についてはなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の大正11年(1922年)、加藤友三郎内閣時代のこととなった。また、加藤友三郎海軍大臣が1921年(大正10年)からワシントン海軍軍縮会議出席のために外遊するにあたって、原は内閣官制第2条「内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣」の規定から内閣総理大臣は軍部大臣を含めたどの大臣の役目も代行できるという解釈から、内閣総理大臣が海軍大臣を代行をすることを提案した。陸軍は反対するも、原は陸軍大臣代行はしないという約束を陸軍と交わした上で、内閣総理大臣による海軍大臣の代行(事務管理)が可能となった。また、植民地長官武官制を改訂し、文官でも植民地長官に就任できる道を開いた。
内政については、兼ねてから政友会の掲げていた積極政策、すなわち、「教育制度の改善」、「交通機関の整備」、「産業及び通商貿易の振興」、「国防の充実」の4大政綱を推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心であった。
帝国議会の施政方針演説などにおける首相の一人称として、それまでの「本官」や「本大臣」に変わり「私」を使用したのは原が最初である。それ以後、現在の国会に至るまで、途絶えることなく引き継がれている。
大正デモクラシーの最中で「平民宰相」は流行語となり、原の肖像と「平民宰相原敬先生」という文言が描かれた置き薬の箱が配られたり、「平民食堂」「平民酒場」が開かれたりした。
大正10年(1921年)11月4日、関西での政友会大会に出席するため側近の肥田琢司らと東京駅に到着直後、国鉄大塚駅転轍手であった中岡艮一により殺害されほぼ即死(原敬暗殺事件参照)。享年66。戒名は大慈寺殿逸山仁敬大居士。
原の政治力が余りに卓抜していたために、原亡き後の政党政治は一挙にバランスを失ってしまった。病床にあった山縣も嘆きが大きく、翌年2月に病没した。