白布温泉(しらぶおんせん)は山形県米沢市(旧国出羽国、明治以降は羽前国)にある温泉。白布高湯温泉とも呼ばれる。米沢市の南部に位置する。湯治場としても400年を越える歴史を有する。江戸時代には福島の高湯温泉、山形の蔵王温泉とともに奥羽三高湯に数えられた。
開湯は1312年であるとされる。武士であった佐藤宗純が、鷹が温泉で傷を癒しているところを発見したとされる。戦国時代には伊達輝宗が、1790年には、上杉鷹山が入湯した。1604年から1615年の間、当地に米沢藩の鉄砲製造場が置かれた。

標高約900メートルの吾妻山北西側に位置し冬季は雪深く、「秘境」的な現地の趣ある雰囲気に、東京をはじめ大都市圏からの観光客、オートバイでのツーリング客、またシーズン時にはスキー客も多い。
老舗である中屋旅館・東屋旅館・西屋旅館をはじめとする数軒の旅館が存在する。その外観は、かつては昔ながらの茅葺き屋根で、訪れる人々の心を癒してくれていた。現在では西屋旅館のみが茅葺屋根である。
足湯、打ち湯もあり、米沢牛や山菜中心の旅館の夕食は、老若男女問わず好評。
付近には天元台スキー場や滝があり、野生の猿や狸、天然記念物のニホンカモシカにも出会える。
■白布温泉の名前の由来
- 温泉発見時の鷹に白い斑点があり、白斑鷹湯と名づけられ、それが転じて白布高湯、白布温泉となった。
- 温泉の流れる様が白い布のようであった。
- アイヌ語で霧氷のできる場所の意味である、シラブに由来し、後に漢字をあてがった。
白布高湯温泉歴史略記 上杉火種塾講話資料(宍戸 康裕氏)
開 湯 | |
正 和 元 年 (1312) | 開祖 佐藤宗純住す 米沢藩主長井貞秀(5代) |
3 年 | 宗純妻山中にて再会 薬師堂建立 湯治場開く |
正 平 年間 (1346~1348) | 遠藤某 住す 宗純死去 領主より湯守を命ぜらる 総湯司 佐藤惣門 湯 守 遠藤 某 |
康 安 2 年 (1362) | 惣門死去 領主の命により惣門の後を宍戸惣蔵が継ぐ 領主公認の湯役所となる |
貞 治 3 年 (1364) | 宗純妻死去 |
天 授 6 年 (1380) | 長井氏滅ぶ 伊達氏の領となる |
伊達氏時代 (1380~1590) | 時に家臣の入浴あり 言い伝えによると 輝宗公 政宗公代に殿の入浴あり |
蒲生氏時代 (1590~1598) | |
上 杉 氏 時 代 | |
慶 長 3 年 (1598) | 上杉氏会津を領し 当地を直江山城守領す |
6 年 (1601) | 上杉氏 米沢三十万石領主となる |
8 年 (1603) | 湯の平から現在の場所へ住を移る |
9 年 (1604) | 白布高湯にて鉄砲製造始む |
元 和 元 年 (1615) | 大阪の合戦終決 白布高湯にて鉄砲製造終了 |
寛 永 20年 (1642) | 宍戸家湯役金免除 |
延 宝 2 年 (1674) 6 年 (1678) | 両年白布高湯大洪水 (この時期 湯宿三戸となる) |
延 宝 6 年 | 関三ヶ村及び李山村の山境決定 |
宝 永 5 年 (1708) | 御森林山の民間委託 |
正 徳 5 年 (1715) | 白布高湯 李山村から分かれ 関村新地となる 戸数3戸 |
宝 暦 3 年 (1753) | 白布高湯火災 湯宿三軒焼失 |
寛 政 2 年 (1790) | 鷹山公ご入浴 自筆の日記をしるす |
文 政 11年 (1828) | 白布高湯火災 湯宿三軒焼失 |
慶 応 3 年 (1867) | 藩境警備を行う |
4 年 (1868) | 鉄砲台木千挺分作り藩に忠信 |
明 治 9 年 | 温泉法 三旅館許可を得る |
34 年 | 現在の湯滝風呂に |
昭 和 2 年 | 吾妻神社 |