■ 伊達政宗 目次  
1、出生から初陣まで(永禄10年~天正9年)
2、家督相続から摺上原の戦いまで(天正12年)
3、家督相続から摺上原の戦いまで(天正13年)
4、家督相続から摺上原の戦いまで(天正14年~天正16年)
5、小田原合戦と豊臣政権下
6、関ヶ原の戦いと最上陣
7、仙台開府と慶長遣欧使節
8、大坂の陣
9、晩年

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伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。出羽国米沢城で生まれ、近世大名としては仙台藩の初代藩主である。幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

■伊達政宗~出生から初陣まで(永禄10年~天正9年)

永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で生まれ、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。幼名は梵天丸。

天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名付けられる。梵天丸は固辞したが、父の輝宗より強いて命ぜられる。諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。史料上にも正宗と書かれたものがいくつかあるが、これは誤記や区別のための書き違えである。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。

天正7年(1579年)10月、田村清顕より婚儀の相談があり、御入輿の日取り、路次警固等合い調う。その冬、伊達政宗が13歳のとき、仙道の戦国大名であった三春城主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫(伊達政宗と同じく伊達稙宗を曽祖父にもつ)を正室に迎える。伊達郡梁川城で輿の引継ぎが行われ、伊達成実・遠藤基信らに守られて、雪深い板谷峠を避け、小坂峠、七ヶ宿、二井宿峠を経て、米沢城に入輿した。

天正9年(1581年)5月上旬、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で伊具郡に出陣、初陣を飾る。また、このころから輝宗の代理として田村氏や蘆名氏との外交を担当しており、蘆名盛隆が対相馬氏戦で援軍を送ったのは政宗の働きかけによるものである。

2、家督相続から摺上原の戦いまで(天正12年)

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