■伊達政宗~家督相続から摺上原の戦いまで(天正13年)

天正13年(1585年)5月に蘆名領檜原を攻めると、8月には大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめとして撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5か村のみを二本松領として安堵されることになった。ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出たところを拉致される。当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。この事件については、鷹狩中の手勢がなぜか鉄砲で武装していたことを根拠に、政宗による父殺しの陰謀と見る説もある。

その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲。11月17日、二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵によりかろうじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。

なお、この年の3月、正親町天皇は織田信長の比叡山焼き討ちによって焼失した延暦寺の根本中堂などの再建への助力のために政宗に対し、献金と引換に美作守への叙任を打診した。しかし、政宗は周辺情勢の緊迫化によって助力が困難であることから、同年閏8月に政宗は会見した青蓮院の使者に対して美作守の辞退を正式に通知している(もっとも、稙宗以来歴代当主が左京大夫を称してきた伊達氏としては美作守は格下扱いと考えた可能性はある)。ところが、このときの綸旨と口宣案はこの件を仲介しようとしていた青蓮院で宙に浮いてしまい、政宗の死から80年以上経った享保7年(1722年)になって青蓮院から仙台藩主伊達吉村に引き渡されたため、この叙任が『治家記録』などの後世の史料に史実として記載されている(享保当時の伊達家にも青蓮院にも、天皇の綸旨を政宗が辞退することは考えられず、戦乱のために伝達できなかったと誤認したとみられる)。

4、家督相続から摺上原の戦いまで(天正14年~天正16年)

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