伊達政宗~晩年

世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、のちに貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5,000石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整う。寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されるほどになる。

2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光のころまで仕えた。寛永12年に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなった。家光は下城する政宗に護身用に10挺の火縄銃を与えた。家光の治世になると、実際に戦場を駆け巡っていた武将大名はほとんどが死去していた中、政宗は高齢になっても江戸参府を欠かさず忠勤に励んだことから、家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っていた。時に家光に乞われて秀吉や家康との思い出や合戦のことなど、戦国時代の昔話をしたという。

健康に気を使う政宗だったが、寛永11年(1634年)ごろから食欲不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていた。寛永13年(1636年)4月18日、母義姫を弔う保春院の落慶式を終えたあと、城下を散策した政宗は経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。そこがのちの瑞鳳殿である。2日後の20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていた。28日に江戸に入ったころには絶食状態が続いたうえ、腹に腫れが生じていた。病を押して参府した政宗に家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。政宗は行水して身を整え、家光を迎えた。しかしお目見え後に奥へ戻るときには杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえなかった。

5月24日卯の刻(午前6時)死去。享年70(満68歳没)。死因は食道癌(食道噴門癌)と癌性腹膜炎の合併症と断定されている。「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めたうえで駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。これは御三家以外で異例のことであった。

辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。

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