天下御免の傾奇者、前田慶次郎が愛した悠久の地 – 米沢
不羈奔放の魂が辿り着いた、安息の地 米沢
絢爛豪華な傾奇者の物語、その終章は米沢
豪放磊落、前田慶次郎が静かに余生を過ごした場所が米沢です。
前田慶次郎(まえだ けいじろう)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将で、その破天荒な生き様から「傾奇者(かぶきもの)」として広く知られています。
本名は前田利益(まえだ とします)とも伝わりますが、確かな史料は少なく、謎の多い人物ですが、漫画などで大変人気があります。
◆ 生涯
- 出自: 生年は諸説ありますが、天文2年(1533年)頃とする説が有力です。尾張国海東郡荒子(現在の愛知県名古屋市中川区荒子)の出身とされます。父は織田信長の家臣・滝川一益の甥である滝川益重という説がありますが、他にも諸説あります。
- 前田家へ: 滝川益重の死後、母が荒子城主・前田利久と再婚したため、慶次郎は前田利久の養子となります。
- 織田信長の命令: 前田利久には実子がいなかったため、慶次郎が後継者となる予定でしたが、織田信長の意向により、前田利久の弟である前田利家が家督を継ぐことになります。これにより、慶次郎は前田家を出奔したと考えられています(天正18年(1590年)頃)。
- 上杉家へ仕官: 前田家を出奔後、各地を放浪したとも言われますが、後に上杉景勝に仕えました。直江兼続と親交があり、組外衆の筆頭として遇されました。
- 長谷堂の戦い: 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、上杉景勝に従い西軍に属し、最上義光と戦った長谷堂の戦いで奮戦しました。
- 米沢での晩年: 関ヶ原の戦い後、上杉家が米沢へ減封となると、これに従い米沢に移り住み、堂森に居を構え余生を送りました。慶長17年6月4日(1612年7月2日)頃に亡くなったとされています。墓所は米沢市の堂森にあります。
◆人物像
- 傾奇者: 派手な身なりや常識にとらわれない奇抜な言動で知られ、当時の人々を驚かせました。白い紋付羽織にシラミの絞りをつけてみたり、脇差を差したまま入浴したりといった逸話が残っています。豊臣秀吉から「天下御免の傾奇者」という称号を与えられたとも言われています。
- 文武両道: 武勇に優れていただけでなく、学識も高く、連歌や茶の湯などの文化的な活動にも親しみました。自ら「殻蔵院一刀流」と名付けた剣術は、並外れた速さと力を持っていたと伝えられています。
- 義に厚い: 主君である上杉景勝への忠義心が厚く、上杉家が減封された際にも多くの家臣が去る中で、「私の主人は上杉景勝だけだ」と言い残ったとされています。自身の禄を上杉家の窮乏のために返上したという逸話も残っています。
- 愛馬・松風: 大柄で鬼のような顔をした愛馬「松風」との逸話も有名です。
◆戦歴
- 手取川の戦い(1577年): 上杉謙信と織田信長の戦いで、織田方として参戦した可能性があります。
- 末森城の戦い(1584年): 前田利家に従い、佐々成政と戦いました。
- 小田原征伐(1590年): 前田利家に仕えていた時期に参加した可能性があります。
- 長谷堂の戦い(1600年): 上杉家臣として、最上義光軍と激戦を繰り広げました。
前田慶次郎は、その特異なキャラクターと数々の逸話から、後世の小説や漫画などの創作作品で人気を集めています。特に漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』の主人公として広く知られ、多くの人々に愛されています。