⓵三文殊(安倍・切戸・亀岡)
◎亀岡文殊は、丹後(京都)の切戸の文殊、大和(奈良)の安倍の文殊とともに、日本三文殊の一つとして有名である。
 大同2年(807年)に、東北地方布教のため、当地を訪れた徳一上人が、五台山に似た山容に心うたれ堂宇を建立したのが文殊堂の始めといわれている。
 別当、大聖寺は真言宗に属し、皇室の勅願所として、国家安穏の祈祷を命ぜられ、また、徳川5代将軍綱吉以来家茂まで十代の間、ご朱印百石を賜わり、中納言格の待遇を受けた天下の名刹となっている。
 文殊堂は文殊菩薩、すなわち釈遵の左にいて知恵を司る菩薩をまつり、中国では五台山がその浄土とされ、昔から、『三人よれば文殊の知恵』といわれるように、学問の神様として知られている。入学、入社試験等の合格祈願に訪れる人があとを絶たない。

境内には、老杉の大木が繁り、歴史の重みと厳かな雰囲気がただよう。大聖寺本坊には、大日如来を本尊としてまつり、ほかに桧の寄木造漆箔像の木造聖観世音菩薩立像(県指定)と阿弥陀、薬師像の2体がある。いずれも鎌倉時代の作とみられている。文殊尊に参詣し傍らの大黒天の前に行き両手で尊像を抱き、「軽くなり給え」と念ずれば、次第に軽くなり、「重くなり給え」と念ずれば重くなり、また、願望達成のときには軽く持ち上げられるという。

参道入口には仁王門があり、両脇には金剛力士像がある。参道途中には、十六羅漢像、芭蕉句碑、『南無阿弥陀仏』と刻された義民高梨利右エ門の念仏碑があり、薬師如来をまつる払川薬師堂のほか、文殊堂背面には大日如来、普賢菩薩、虚空蔵菩薩がまつられ、また一山の守護神、蔵王権現が鎮座している。
 茶屋で一休みして名物の玉こんにゃくを食べたりするのも「文殊様」を訪れる楽しみの一つである。高畠町亀岡。

◎安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院です。京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。入試合格祈願や学業成就、厄除け魔除け祈願を願う人々のお参りが多く見られます。御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」の格言で有名な文殊菩薩で、日本最大(7m)、鎌倉時代・1203年に仏師・快慶によって造立されました。獅子に乗り4人の脇侍を伴う、渡海文殊群像【5像全てが国宝】です。また、開運弁才天、安倍仲麻呂公、安倍晴明公の御尊像、方位災難除けの九曜星が安置される境内の金閣浮御堂は、霊宝館として内陣参拝でき、季節によって様々な寺宝を見ることもできます。うさぎ・限定朱印。奈良県桜井市阿部にある華厳宗の寺院。山号は安倍山。本尊は文殊菩薩。開基は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)とされる。奈良県桜井市。

◎「切戸の文殊堂」として親しまれており、重要文化財の文殊菩薩を本尊として古くから出羽亀岡、大和桜井の文殊とともに日本三文殊のひとつに数えられている。「3人寄れば文殊の智恵」の言い伝えにあるように、智恵の文殊様として有名で、境内には学業成就、入試祈願の絵馬がびっしりと並んでいる。足利時代の多宝塔、重文の金鼓、歌人和泉式部の歌塚など重要な文化財も多く所蔵している。智恵を授かる「智恵の餅」。京都府宮津市。

⓶三熊野(速玉大社・那智・宮内)
宮内(山形県南陽市宮内)

東北の伊勢とも言われ、和歌山県の熊野三山、clip_image018長野県の熊野皇大神宮とともに日本三熊野の一つに数えられる熊野大社。縁結びで有名な山形県内有数のパワースポットです。参道の入口には大鳥居、参道には樹齢850年の大イチョウも今なお力強くそびえ立ちます。46段の石段をのぼると現れる、どっしりした風格のある拝殿と風格漂う本殿が。本殿裏側の「三羽のうさぎ」の彫刻をすべて見つけると願いが叶うとか。二羽目まではどこに隠されているか授与所で教えてくれるそう。三羽目は、人から聞いたり、場所を教えてしまうことでご利益がなくなってしまうとか!?三羽目は、自分の力だけで探してみましょう。探し疲れたら境内にあるicho cafeへ。メニューは地元の素材を使った逸品揃い。静かで優しい雰囲気のあるカフェで最高のティータイムを!月に一度、満月の夜に開催される縁結び祈願祭「月結び」。満月の光と三羽のうさぎに導かれてご縁が結ばれるように、特別な縁結び祈願が行われます。参列者限定のお守り「たまゆら守」は、ころんとした可愛らしい形で、色は月ごとに変わるそう。月結び限定の御朱印もあるので、御朱印帳を忘れずに!また、6月~9月の間月に1回開催される縁結び祈願祭「かなで」も開催。風鈴の音色に願いを込め縁結び祈願を行います。この期間中は、神事参加者の願いが込められた風鈴が飾られ、境内中に夏らしい涼やかな音色が奏でられます。

熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社として、 全国約4,000社余ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の篤い社です。

古来当社はご祭神「熊野夫須美大神」の御神徳により「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社であります。

速玉大社(和歌山県新宮市新宮1番地)

神代の頃に、神倉山の磐座であるゴトビキ岩に熊野速玉大神と熊野夫須美大神が降り立ち、そこで祀られることとなった。熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる[4]。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされている。しかし、社伝によると景行天皇58年に現在地に遷座し、速玉之男神の名から社名をとったという。もともと祀られていた所である神倉山は神倉神社となり、また元宮と呼ばれ、当社は新宮と呼ばれる。初めは二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀っていたが、平安時代の初めには現在のように十二の社殿が建てられ、神仏習合も進んで熊野十二所権現と呼ばれ、やがて式内社(大)に列せられた。また、穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。1871年(明治4年)、熊野速玉神社として県社に列格するが、1883年(明治16年)、打ち上げ花火が原因で社殿が全焼してしまった。1915年(大正4年)、官幣大社に昇格する。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。1967年(昭和42年)に社殿が再建された。2004年(平成16年)7月1日、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。

③三左衛門(本間・柏倉・海老名)
<本間家>

本間家は、当初相模国愛甲郡本間村にいたため、本間氏を称したとされる。鎌倉時代、佐渡国守護となった大佛氏(執権北条氏の支流)の守護代として佐渡に入った本間能久より始まる。雑太城(さわだじょう)を本拠として勢力を伸ばし、いくつかの分家に分かれた。永正6年(1509年)、永正の乱では関東管領上杉顕定に敗れた越後守護代の長尾為景と守護上杉定実を匿い、翌永正7年(1510年)には羽茂本間家・雑太本間家が為景に援軍を出し寺泊から越後へ上陸、長森原の戦いで顕定を敗死させた。その功により為景から越後国に領地を与えられている。戦国時代になると分家の河原田本間家、羽茂本間家の力が強まり度々争うようになり、惣領家の雑太本間家は没落する。為景の子長尾景虎(上杉謙信)の代に河原田、羽茂両家の争いはいったん収まるものの、天正6年(1578年)の謙信の死後に再燃する。後に上杉景勝の代になると、会津の蘆名氏、出羽国の最上義光と結び反・上杉の姿勢を取るようになる。豊臣秀吉から許しを得た景勝は、天正17年(1589年)、佐渡へ侵攻し本間氏を討伐。抵抗する佐渡側の本間氏と決別して上杉側に就いた一部の本間氏は、討伐後に佐渡を離れて上杉家と共に越後、会津、米沢へと移転した。佐渡中興(なかおく)の本間四郎左エ門泰秀が雑太の本間信濃守憲泰の娘婿となり、雑太本間家の家督を継承した。泰秀の嗣子四郎左エ門大吉は佐渡奉行所地役人に召出され、佐渡相川に移住した。大吉には宣儀、平秀、蕃儀の三子があり、平秀が佐渡奉行所地役人を継承し、6代後の今井彦一まで継続して佐渡奉行所地役人を務めている。宣儀(権左エ門)は中興本間家を継ぎ、2012年(平成24年)現在、宣儀から数えて12代目となる子孫が新潟県佐渡市中興(旧・金井町中興)に在住している。宣儀と平秀の子孫の墓は、いずれも中興本間家の菩提寺である興源院(佐渡市中興)にある。佐渡本間氏の嫡流である雑太家の流れを汲む中興本間家は350年以上の時を経て、現在に続いている。第二次世界大戦後のGHQによる農地改革の実施に伴い、1750ヘクタールあった農地はただ同然(買収価格は1反(1,000平方メートル弱)あたり水田760円、畑450円。戦後のインフレ(1945年から1949年にかけて卸売物価ベースで70倍)にもかかわらず据え置きされた)で売り渡され、本間家には4ヘクタールのみが残存した。1990年(平成2年)、本間家の商事部門等であった本間物産は倒産。その後、本間物産はカウボーイ傘下での再建を経て、秋田県仙北市に本社を置く伏見屋からの買収によって、子会社化された。 なお、不動産関連は本立信成として今日も現存する。本間ゴルフ創業者は、酒田本間氏庶流にあたる。

<柏倉家>

当主は代々「九左衛門」と名乗り、10家以上の分家を創設しました。村山地方を代表する農家・地主であり、自作農も手掛けたほか、江戸時代には同地方において最多級の紅花生産者でもありました。明治時代以降は銀行経営にも携わり、その後は地域の経済発展や社会貢献に尽力しました。
周辺には現在でも分家の屋敷群が建ち並び、各家の敷地を囲む黒塀がひとつのまちなみを形成しています。また、旧柏倉家住宅の背後には、三嶋山と呼ばれる豊かな里山があります。そこから湧き出る清水は敷地内を巡り、門前の畑まで連綿と流れ続いています。ここでは、自然と一体化した豊かな里山の生活の一端を感じ取ることができます。
旧柏倉家住宅は近世の上層農家の形式を継承した大規模住宅です。
建物約360坪、敷地は約2,300坪と広大な屋敷に庭園を築き、主屋のほかに4つの蔵(仏蔵・内蔵・前蔵・北蔵)と長屋門や籾堂などの建物が立ち並びます。

現在の主屋は前身の建物が天明3年(1783年)に建てられ、明治31年(1898年)に大改修を経た姿です。近代の発展を語る主屋の座敷や銘木による精緻な内装や、水運盛な頃に北前船で運ばれてきたと伝えられる京仏壇が据えられた荘厳な仏蔵、春慶塗で華やかに彩る前蔵の上質な蔵座敷など、見ごたえのある建築技術や高度な意匠が特徴です。
これらの価値が令和元年に山形県村山地方における屋敷構えを特徴とした『明治期の南東北における上質な農家建築』として高く評価され、国指定の重要文化財となりました。

<海老名家(岩城屋)>

「先祖の遺産は消費しない」を家訓とする岩城屋は江戸時代後半から小間物や雑貨、明治の頃から金融宅地業に切り替えて更に大きく飛躍しました。海老名家六代目当主久松は京都との交流を盛んにして家運中興の業績をあげ、この間、多くの文人墨客と交わりました。幕末から明治にかけては頼山陽や離れ座敷の茶席に「団雪庵」と名付けた支峯などが訪れています。長井の店屋造りの典型的な建物で店蔵は江戸時代のもので店と母屋は大正6年の中道大火で類焼したが、岩城屋の伝統を守り類焼前とまったく同じ形に新築しました。入口の格子戸と岩城屋の名の入った小間屋門の「のれん」、店の格子窓とその上のキリヨケと呼ばれる丸く反った小屋根、雨風から漆喰のアオリ戸や窓を守る為、店蔵の窓につけた出窓風の「ワサヤ」など、雪国の風土と長井が商業都市として栄えた頃の面影を残しています。

④東北三大桜(三春・久保・和田)
・三春(滝桜)

福島県田村郡三春町大字滝字桜久保に所在する推定樹齢1000年超の国の天然記念物の枝垂れ性のサクラの巨木。三春の滝桜、また単に滝桜とも呼ばれる。品種はエドヒガン系の栽培品種のベニシダレ(紅枝垂桜)。

・伊佐沢(お玉桜/エドヒガン桜)

田村麻呂は、この地を訪れた折に豪族である久保家の家に宿泊し娘のお玉と結ばれたが、奥州の征討が済むと軍を収めて帰京してしまった。お玉は恋慕の情に耐えきれず、病にかかり、亡くなってしまう。再び東北に来た田村麻呂がそれを知り、哀情から摂津国摩耶山の桜を取り寄せ、お玉の墓に手植えして墓標にしたという。起源については、桜の苗を送ったという説や、地元の豪族が妻(お玉)と子の死を悼み手植えしたものという説もある。いずれも「お玉」という女性が登場することから「お玉桜」の名でも親しまれている。

・和田(原の五郎右衛門の枝垂れ桜)

和田字原に、五郎右衛門とゆう名門の豪農がある。この枝垂れ桜は五郎右衛門の庭にある。初代五郎右衛門は大阪から婿入りした人で、その時持参した鉢植えの桜を大地に植栽したものと聞きます。推定約500年、根回り5メートル、樹高は明治36年台風で折損したが現在6メートル位と推定され、太い枝が四方に広がり、その姿は優雅である。又、上杉藩主が毎年のごとく観桜会を催したと云われています。
「和田の昔あれこれ」より