⓵持仏堂

伝承によると、江戸時代、和田村馬頭の地において行き倒れた大阪の豪商鴻池氏を遠藤家が引き取り二年間にわたり各地の名医や薬と献身的な看病を尽くしたが病気が治らなかった。そのお礼に鴻池家と同じ持仏堂を二つ作り一つを遠藤さん宅に贈られたものです。
絢爛さ、内扉や天蓋等の螺鈿刻に極彩色が施され、天翔ける天女と涅槃の釈尊を取り巻く悲嘆の弟子とがよく心理的に表され名工の作とうかがわれます。
神仏習合様式の荘厳なもので現在も馬頭東地区の遠藤家が所有しています。
以上
「和田の昔あれこれ」より抜粋

⓶青葉の笛
最近は「青葉の笛」といっても知る人は少ない。 しかし年輩の人であれば、「青葉の笛」といえば誰 もが知っている有名な笛である。明治の頃から「青葉の笛」という小学校唱歌が広く教えられていたからだ。
「一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達哀れ 暁寒 き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛」という 歌詞である。 この歌が普及するにつれて、「青葉の笛」といえ ば源平の戦いで破れた平家の公達(敦盛)が所持し ていた、あの有名な笛と考えられるようになった。しかし、妙なことに「平家物語」には敦盛が所持 した笛は「青葉の笛」ではなく「小枝」と記されている。さらに、日本全国に「青葉の笛」とよばれる 笛が八管以上知られている。
源平合戦の最後の戦い、壇ノ浦の戦いで平家は滅んでしまうが、生き延びた平家一門の中の落人らしい人が上和田浅森の旧家先代二宮三郎右衛門氏の家を訪れしばらく宿を取らせてほしい旨を伝え、そこで二宮家では快くその願いを受け入れ親切にもてなした。
そして、数年が過ぎ二宮家との別れの当日にその落人がお礼として青葉の笛と水玉を贈った。
なお、現在遺されている笛は家宝の為、和田の郷社「高房神社」の本殿そのままの形に縮小した総けやき造りの社殿に所蔵されている。
以上
(東洋音楽学会会員:ペンネーム美濃晋平氏解説及び「和田の昔あれこれ」より抜粋

③明海上人
即身仏は日本全国に二十数体があり、そのいずれもがそれぞれの地方で厚い信仰を受けている。特に山形県の庄内には6体の即身仏があり、置賜には2体ある。
ミイラを大別すると天然ミイラと人工ミイラとがあり、天然ミイラは偶然に乾燥によって出来たミイラで、常信庵のミイラはこれに属している。
人工ミイラにはエジプトの即身仏を始め、日本の大部分の即身仏もこれに属し、明海上人の即身仏もこれである。
日本での即身仏(人工ミイラ)は弥勒菩薩信仰からきており、弥勒菩薩がこの世に現れるのを待つために即身仏になろうとしたものと思われる。
明海上人は小中沢、鈴木嘉左衛門(現松本家)の長男に生まれ、15歳で眼病を患い18歳で盲目となった。22歳から戒行を始め、常人の及ばない木食、禁塩、荒行を行い、26歳で湯殿山の行者と海号を授けられ、28歳で御室仁和寺から上人号を許され、33歳には亀齢山、明寿院の山号、院号を賜り、39歳で印可を授けられた。
官職は納言同格の官位で乗輿を許された。紅色の衣を着て、銀色の袈裟をかけ水晶の数珠をつまぐり長柄の傘をさし、ご室殿直本寺となり、藩の行人派惣録所を命じられた。
又、人々の病を祈祷し、火災を鎮め橋を直し、困窮者を助ける等、人々の為に尽くしたが
病弱だった為44歳で亡くなった。
明海上人は信仰心厚く、荒行をやった行者であった。又、個人所有の即身仏はここだけである。
以上
昭和56年発刊「三沢郷土史」より抜粋

④多勢丸中家
◎ヒストリー
・上杉謙信が越後で力をつけたのは青苧のおかげだった。
  ブランド化していた越後産青苧流通の支配
・直江兼続が越後の青苧生産のノウハウをそっくり置賜に移植した。
藩買上制→藩専売制。《青苧座は織豊政権による座の撤廃と上杉氏の移封によって力を失うことになる。そして皮肉なことに、越後の青苧が江戸時代の元禄年間に没落した最大の理由は、上杉氏の移封とともに青苧栽培技術が伝来された会津・米沢両藩産の青苧との競争に敗北した影響が大きかった。》(ウィキペディア「青苧座」)
・鷹山公「最終製品化して付加価値を」→米沢織
  安永5年1776、越後縮の織師を招く。青苧→麻絹交織→絹織物。
・そもそもこの地域は古代より養蚕の盛んな土地だった。
  米沢 白子神社(しろこじんじゃ)創建が和銅5年(712)。《神のお力によって桑の林に無数の蚕が生まれ、沢山の繭を作ったので、桑の林やあたりの菅(すげ)が雪に覆われたように真っ白になった。この不思議な出来事により、この地を白蚕村(しらこむら)と名付け、和銅5年(712)に社を造営して蚕菅社(こすげしゃ)と称し、白蚕明神(しらこみょうじん)とした。》(米織歴史散歩)
  漆山 岩倉様信仰。貞観年中(859〜877)慈覚大師による開山。天保13年(1822) 社殿再建。現在はない。《岩倉神社は笹子平、焼ノ平の西北部の岩山の頂上に奥の院がある。祭神は厳島弁才天黄金富主家命といわれ、慈覚大師の開基と伝えられている。・・・この神社は養蚕安全守護神として強い信仰を受け、信者は西置賜郡、米沢市など置賜一円は勿論のこと、遠く福島、喜多方、東京方面からも参詣があった。また火伏の神としての信仰、商売繁昌の神としての信仰も厚く、米沢市内の織物業者らがよくお詣りに来た。/この神社の祭礼は旧四月一日で、参詣者はお宴銭と鶏卵を持ってゆく。岩倉様には白蛇が棲んでいるといわれており、蛇は岩倉様のお姿であると信じられているから卵を持ってゆくのだという。/祭り当日は神主がいて養蚕安全のお札やねずみ除けのお札を受けることができる。お札には蛇の絵が描かれており、そのお札を蚕室か神棚に納めておく。》(奥村幸雄『置賜の民俗』7.8合併号 昭和51年)

◎製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-
2018/08/26
昭和55年のこと、当時「地域主義」の第一人者清成忠男法政大教授への講演依頼から始まった「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」シンポジウム。そこで問題提起者のひとり石黒龍一郎さんの発言、《歴史を顧みますと、戦前この宮内地内は商工業の町といわれ、たしかに周囲10Km以上の範囲に商圏をもち、お得意様と町の商人の関係は親戚以上のものがありました。しかし、工業においては、製糸工場の経営者というのは、工業的感覚での経営というよりむしろ、商業的才覚での経営であったという事実があります。つまり、工場内の品質管理、品質の向上とか、生産工程の能率化という工業的なプロセスにそのエネルギーを使うよりは、何とか商売で当 てて、もうけてくれましょう、うまく相場の波にのりましょう、原料を安く買いましょうという方向へ精力を傾けてきました。その結果、純粋な工業的認識に乏しく、この地には工業技術の蓄積というものが、ごく一部を除いては無い、つまり技術的に成長しなかった。この風潮は今も尚、底流となって宮内の工業の中にあり、それが欠点のひとつではないかと考えられます。したがいまして、われわれ工業人は、戦前の商業主義的工業の範躊を脱し、より高度なものへの激しい挑戦の意欲をもった「工業する心」を確立してゆくことが第一の課題であります。商業主義的工業、準工業的姿勢ではどうしても装備は軽装になりがちであり、身軽でありがちです。われわれは「技術力」という有形の財産にも劣らない無形の財産を残すにはどうするか、深く考えるべきだと思われます。》
「羽前エキストラ」の再認識でその改変を迫られた。この地域にはむしろ、高品質志向の伝統が昔から伝統としてあったのではないか、ということだ。そしてそう思った方がずっといい。石黒さんは、信州の製糸業が、諏訪のセイコーエプソンのような先端工業への転換を評価した。しかし、「女工哀史」とは無縁のこの地域には「ないものねだり」だったのではないか。ないものねだりするより、実際にあったいい面を評価して伸ばした方がいい。「羽前エキストラ」がそういう目を開かせてくれた。                             以上
・昭和55年(1980)三商工会青年部共催シンポジウム「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」報告書作成。
市内各所の写真を掲載、当時「置賜新聞」記者だった加藤茂氏と写真を撮って回る。そのとき初めて丸中邸へ。「必死で守ってきた」というトシさんの案内をうける。)                            
平成28年(2016)登録有形文化財(建造物)に登録(文科省文化審議会)より

◎「羽前エキストラ」
(大竹しのぶ主演の映画「野麦峠」の製糸工場ロケは高畠の長谷川製糸だった。野麦峠を地元の人は「野産み峠」と言ったという。飛騨から信州へ峠を超えて行った若い娘たち、飛騨へ戻るとき、ひとり列から抜けて笹薮に入り、そこで堕胎する娘が少なからずあったとか。しかし山形ではそうした「女工哀史」とは無縁であった。6割位は家からの通勤だった。給与は平均して年間200円。300〜400円もあった。1万倍すれば現在の金銭感覚におおよそ合うのではないか。優秀な工女3人も居ればたしかに蔵が建つ。それを保障したのが「羽前エキストラ」だった。)

・「製糸業」は「生死業」
《製糸は、カイコの吐いた繭糸を一本並べに引き揃えて目的の太さと長さの糸を作る縄ないにも似た単純な加工工程を中心に構成されており、生糸販売価格の8割が原料繭代で占められる利益の薄い産業であった。そのうえ季節産物の繭を一括購入する大金の購繭資金の殆どは借入金で賄われた。一方出来た生糸の価格は支 払った経費に関係なくその時々の相場で決められた。このように製糸業は「生死業」と言われるように先の見えない不安定要素を含んだ産業であった。そのため多くの先輩の倒産を目にし、自らも辛酸を舐めてきた諏訪の製糸家は、犠牲を払ってよい生糸を作り高値で買ってもらうより、屑物を少なくし て確実に大目の生糸を手にする「糸歩増収」の道を選んだ。その結果、糸口の求まる最低の煮加減に抑えた硬めの繭を熱い湯に浮かべて煮不足を補いながら糸を繰る「浮き繰り法」の中でも糸歩を最も多くする「諏訪式製糸法」と言われ全国に普及する独特の方法を案出するのであった。》
(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年)
・置賜では最初から高品質生産を目指した。
《糸は細いほど高級です。普通糸(21デニール)が繭7、8個から1本の糸を取り出すのに対して、羽前エキストラ(14デニール)は繭5個から1本です。それが可能になったのは、繭を十分煮た上で糸を取り出す沈繰法(普通は浮繰法)によってです。多勢亀五郎が群馬の古老からその秘伝を承けてこの地域に広めたといわれます。東置賜15社で組織した多勢組がその役割を担いました。二流品(横糸用)で大量生産の信州諏訪方式に対して品質優先(ヨーロッパ向け縦糸用)の山形方式、その成果が「羽前エキストラ」の名を世界に轟かせることになりました。》
(世界に誇る優良生糸「羽前エキストラ」 『宮内よもやま歴史絵巻』より 平成16年)
・時代の先端をゆく「山形方式」
《明治の終わり日本生糸は量的には世界一となったが、品質は織物の「よこ糸」用の二流品であった。更なる輸出の増大には欧州糸が占有している「たて糸」分野への進出が必要であった。そのためには生糸を構成する繭糸本数(粒付け数)の管理を徹底して生糸の太さを揃え、繭を良く煮て生糸の抱合を良くする必要があっ た。軽め煮繭浮き繰りの諏訪式繰糸法ではその要望に応えるのは困難であった。政府は大正に入ると、「信州式浮き繰り法」から「たて糸」用生糸作りの、繭を良く煮熟し、繰られている繭だけが湯面に頭を出す、山形流の「沈繰(ちんそう)法」への技術転換を積極的に指導した。》
(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年)

◎どのぐらい儲かったか?
・大正4年(1915)の多勢吉郎次家(丸多製糸場)
  年間推計売上額235,717円–生産費用133,340円=推計収益額102,378円
   推定従業員数150人で計算すると、一人当たり売上1,571.4円。一人当たり収益682.5円
   *この年の給与所得者年収333円、大工手間賃1.1円(1日)。消費者物価指数(都市部)1915/2015:1/3110。
   *エヌデーソフト(株) 2017年度売上(単独)80.3億円 営業利益(単独)15.1億円(純利益10.8億円)
従業員(単独)376名→一人当たり売上2,136万円。一人当たり収益402万円
(株)かわでん    2018年度売上188億円 営業利益8億円 従業員564名(2014)
→一人当たり売上3,333万円。一人当たり収益142万円          
(「近代における優等糸生産の展開と製糸技術」伊田吉春より 平成25年)

◎二代目多勢亀五郎(多勢金上)と横山大観
・名作 六曲一双「紅葉」図
  多勢延太郎は、初代亀五郎の孫にあたり二代目亀五郎を襲名します。製糸業絶頂期、二代目亀五郎は画を愛し、横山大観、川端龍子、小杉放庵、鏑木清方といった当代きっての画家たちと交流を重ねました。
  今では「大観作品の中でも最も絢爛豪華な屏風」として横山大観の代表作に数えられる六曲一双「紅葉」は、当時あまりの斬新さゆえに買い手がありませんでした。亀五郎はその絵を二万四千円で買い取ったのです。大観は大変感激して、お抱えの表具師と共に多勢家に飛んできました。昭和六年のことです。この屏風絵 はいま、島根県の足立美術館の看板作品として毎年秋に一般公開されています。
・大観が画いた菊五郎の舞台衣装  
  「昭和の初め頃、羽前宮内に多勢亀五郎という紀文大尽のような男が出た。」
  すぐれた審美眼と持ち前の侠気で名を成した米沢出身の美術商木村東介は『不忍界隈』(大西書店1978)の中で、亀五郎(延太郎)の桁外れの御大尽ぶりを紹介しています。
  亀五郎寵愛の名妓との宴席に、全盛期の人気役者六代目尾上菊五郎を侍らせ、さらにその場に横山大観を呼びつけて六代目の舞台衣装の絵を画かせ、歌舞伎座東の枡席を買い切ってなじみの芸者、大観一統、得意客を並べ、花道でその衣装姿の六代目に見得を切らせたというのです。(注5) 
・妹背の松をモチーフにした「相生の松」
  横山大観は大正から昭和にかけてしばしば漆山の金上製糸に長逗留しています。「相生の松」と題する作品がありますが、 その姿形からしてモチーフとなったのは宮内の妹背松と考えられます。(神奈川県箱根町 ポーラ美術館蔵)  

◎多勢丸中邸
・多勢組(注6)の流れを引いて、多勢一族中唯一、現在も工場経営して存続。
  明治44年(1910)、多勢吉郎次の娘婿多勢慶輔(養子/長女婿)、多勢丸多から独立して多勢丸中製糸工場を開設(48釜、約60名)。
  昭和2年(1927)、釜数180、社員260名となる。
  昭和15年6月、二代目賢次を中心に社業隆盛を極めるも、賢次急逝。初代慶輔現役復帰。
  昭和19年、陸軍赤羽被服廠の疎開倉庫に指定され工場閉鎖廃業。
  昭和23年、二代目賢次妻・とし、資本金50万円、社員20名、10釜にて 株式会社 多勢丸中製糸工場として再開。朝鮮動乱特需で活況。
  昭和27年 以降、当時最先端の自動操糸機を導入し合理化を図ろうとするも、目覚しく発展した化学繊維に押されて製糸業は次第に衰退の兆し、さらに養蚕農家の果樹転作が進み、原料となる繭の確保困難。 日本経済は神武景気(S30~33年)、岩戸景気(S33~37年)の恩恵を受けることなし。
  昭和35年、三代目賢二郎、電器部を創設。コンデンサー部品の製造を開始。
  昭和38年、株式会社 多勢丸中製糸工場を自主廃業し、株式会社 多勢丸中製作所 を設立。
  昭和61年、鉄筋造一部2階建て1,995㎡新工場建設。
  昭和63年、機械加工部門を分離し、関連会社 (株)創機を設立。
  現在、両社併せて資本金3,400万円、従業員22名。両社とも、四代目社長多勢経一郎。非常用自動起動発電装置、充電式蓄電池(ためまるくん)、LED投光機、ワイヤーハーネス、スペースヒーター等を製造。オーダーメイドにも対応。(株式会社多勢丸中製作所HPより)
・製糸業隆盛期に建設された多勢丸中邸。
  製糸業隆盛を極めた大正後期、その利益にて5年をかけて建設。総工費20万円とか。(現在の価格で約20億円前後か)(HPより 多勢賢二郎会長記)
  平成28年、登録有形文化財に登録。
棟札「大正拾壱年建設 大正拾壱年拾月貳拾日上棟祭挙行 斎主島貫哲 家主多勢慶輔 棟梁正 鈴木吉助 副 黒澤仙助」
《座敷棟の西側に接続する応接用の建築。座敷側屋根を切妻、西側は寄棟とし、ドーマー窓を設ける。外壁は下見板張で、1階は引違い出窓、二階は上下窓とするなど外観を洋風でまとめる。一階内部は手の込んだ和風。階段室と二階は洋風で、優れた意匠と技術を見せる。》(文化遺産オンライン)

◎おわりに
・頓挫した製糸資料館構想。
  昭和59年(1984)、南陽文化懇話会が中心になって製糸業の遺産を保存すべく郷土資料館構想建設の動き。→市長交代(昭和61年、新山市長から大竹市長へ)や吉野石膏への寄附要請がうまくゆかなかったことなどで頓挫。
・青苧開発の副産物としての「夕鶴の里」
  平成元年(1989)、南陽市青苧製品開発推進協議会設立。→平成8年、解散。(平成14年、南陽市古代織の伝統を守る会結成。今年12月、青苧取組み30年記念シンポジウム開催予定。ただしその後の存続については不透明)青苧製品開発については当初の目論見(中山間地域振興)が外れたが、その過程の副産物が夕鶴の里(多勢吉郎次家蔵活用)。民話口演や機織り体験などで、かつての資料館構想凌駕の成果。
多勢丸中邸が建設当初のままで現存することは、ある意味奇跡。この奇跡、この僥倖を今後どう活かすか。官民挙げての対策対応が求められている! まずその凄さを認識することから始まる。
(9月22日 13:30〜16:30 【現地研修】漆山地区の歴史遺産をめぐる 島貫満先生より)

・北条郷の青苧栽培について
苧栽培が盛んだったのは小滝村、池黒村、鍋田村、漆山村、荻村で、その他金山村、椚塚村 《現在の南陽市一帯が北条郷と呼ばれた江戸時代の始め頃(慶長末頃)、青、三間通村においても生産されていたことが、当時作成された「邑鑑」によってわかります。
  古来青苧は衣料原料として自給自足的に栽培されていたとも考えられますが、本格的に生産されるようになったのは慶長3年(1598) 直江兼続が越後から置賜に移ってからです。越後において上杉謙信が力を貯えたのは、金山開発もさることながら青苧生産によるところが大きかったと言われています。上杉藩の越後からの移封は、会津と置賜への青苧生産のノウハウ移動でもあったことは『小千谷縮年表』に「慶長3年上杉景勝、春日山城主55万 石から会津若松に移される。越後に於ける貴子生産は領主的保護を失う。後日『苧は上杉公に随きて会津へ行きたり』と云われた。」とあることからも知ることができます。やがてこの地における青苧生産は、「實に奥州産優等繊維は植物繊維中の精粋にして、世界中最良の品なりと称するも過言にあらず」(『苧麻』䑓湾總督府内南洋協曾壷湾支部刊)と評されるまでになりました,米沢織は、越後以来の貴苧製品化の伝統に立脚したものといえます,
  生産された貴苧は一部は「役苧(蔵苧)」として上納されますが、「売苧(商人苧)」として商人の手を通して多くは上方へ、また越後へと運ばれました,とりわけ北条郷では「商人苧」が発達し、多くの貴苧商人が活躍しました。明治初期製糸産業をこの地に移入しその中核を担ったのは、その中のひとり多勢吉兵衛の 子孫でした。》
(『青苧フェスティバル』パンフレットより 平成16年)

・『漆山の製糸業の歴史』
  《当時全国的にエキストラ格の生糸をまとまって生産していた地域をみると大別して三つあげられる。いわゆる山形県米沢地方(羽前エキストラ)、長野県北部の松代地方(信州エキストラ)、愛知県から三重県、京都府を経て島根県、愛媛県に至る関西地方(関西エキストラ)の三地域がエキストラ格の生糸を生産し海 外でも好評であった。
  これらの地域におけるエキストラ格生糸の特徴を要約してみると、山形県の羽前糸は繭質がよいこと、製糸法は煮繭煮渡し式、沈繰の技術を採用し、繰糸工女の養成が的確であったことなどがあげられ、これに封し長野県松代糸や関西糸は繭質、ことに解舒が優れ、さらに繰糸工女の養成が優れていたなどがあげられる が、信州、関西の製糸家のはとんどは沈繰技術は採用していなかった。
  本県の特殊技術ともいえるこの繭煮渡し式沈繰製糸法の先駆をつけた人は置場都漆山村の豪農多勢亀五郎であるといわれている。
  彼は明治五(1972) 年、上州富岡に行き政府の設立した富岡製糸場の洋式製糸機械による製糸法を見学し、これからの器械製糸のあり方について、いたく感激し、次いで前橋の製糸の名望家小栗久兵衛氏宅を訪れ、彼の発明に依る沈繰法を伝授され、製糸器械を購入し、同六年七月帰郷して三窓の小工場を設立して沈繰法による製糸を行った といわれるが、多勢吉郎次や布施長兵衛、多勢長兵衛らの各氏が先覚者であるとの説もある。》
(おりはたの里づくり推進会議 歴史部会より 平成6年)

多勢金上製糸株式会社の倒産《 昭和三十年十二月二十三日突如として南陽市漆山の多勢金上製糸株式会社(代表者多勢亀五郎)が会社の解散を宣言した。このことは製糸業界のみならず県内の蚕糸業界に大きな動揺を与えたものである。
  既に述べたように多勢金上製糸は明治六年の創業で、明治前期には早くも洋式製糸の導入について群馬県富岡に設立された官立富岡製糸所や前橋の器械製糸を視察して、いち早く器械製糸を導入したほか、沈繰法技術を取入れて製糸の近代化を推進し「羽前エキストラ」と謳われた優良生糸の生産に力を入れ、本県製糸業 発展の先進的役割を果たしてきたことは何人も認めるところであった。
  大戦後は二五四台の中堅器械製糸業として復元し業務を続けたが、昭和二十八年の糸価不況以後は経営不振が続き、これに昭和三十年前半からは社内の労働争議が続発し、最終的には昭和三十一年四月三十日県地方労働委員会の斡旋により会社解散に関する清算人を選定調印し幕を閉じた。
  多勢金上製糸の倒産で大きな被害を蒙ったのは養蚕農家を代表する山形県養蚕連であった。同社との繭売買に関する団体協約を行った繭数量は約一万二千打で、その繭代不払残額は一九五万円余り集荷指導費約三〇九万円計五〇四万円に達した。
  この未払額は当然県養蚕連の負担として関係養蚕農家に支払われたが、その後遺症として県養蚕連は債権整備団体に指定されて運営することになった。》
富豪、多勢亀五郎(『翠松の丘 宮内高校人脈物語』結城亮一より 平成19年)
《 二代目亀五郎は日本画を好み、川端龍子や横山大観の絵を集めた。昭和三年には川端龍子の後援会長を引き受け、日本橋三越の画廊で個展を三回開かせ、三回とも全部赤札にして育て上げた。横山大観の絵は、川端から目ききをしてもらって買った。
  昭和六年に大観が屏風(びょうぶ)絵の名作「紅葉」を描いたとき、木の下の流水を表現するのに当時まだあまり使われていなかった描画材料のプラチナ泥を使ったため、画壇や画商は工芸品とみなして認めなかったのを、亀五郎が二万四千円で買い取ったので大観はいたく感激し、お抱え表具師を連れて漆山まで訪ね てきたのだった。公務員の月給が五十円のころだから、二万四千円といえばざっとその五百倍にあたり、今の金額に直せば七千万円くらいになるだろうか。
  後年、多勢家が左翼の教唆による暴力的労働争議によって倒産に追いこまれたとき、多くの書画骨董品とともに「紅葉」も処分された。その後、島根県の足立美術館で問題の屏風絵が所蔵されているのがわかった。同美術館によると、その作品は、倒産した東洋バルブの創業者・北沢国男氏の収集品「北沢コレクション」 から昭和五十四年に購入したとのこと。それより以前の持ち主はわからず、これが多勢家旧蔵の作品であったという可能性も捨て切れない。

  二代目亀五郎は自分のことだけでなく周囲にもいろいろと貢献した。近辺の町村にはアメリカ製のダッジ消防車を寄付したり、地元の優秀な男子学生に返済無用の育英資金を出したり、若い政治家に資金提供をしたりした。特に米沢市出身の県会議員木村武雄を代議士にするため努力をし、昭和十一年に初当選させて国会 に送りだした。》       (『漆山の製糸業の歴史』より)

・『不忍界隈』
《昭和の初め頃、羽前宮内に多勢亀五郎という紀文大尽のような男が出た。まだ二十代の若者であったが、一世一代の豪華な遊びを日夜くりかえしていた。その遊びの中の一つにこんなのがある。ちょうど六代目菊五郎が全盛の頃で、久方振りの菊吉の顔合わせ、歌舞伎座で御所の五郎蔵を上演するという前景気が新聞紙上を 賑わした。御所の五郎蔵などという芝居は大した芝居ではないが、その頃仲の悪かった菊吉の久方振りの顔合わせというそのことだけで、いやが上にも人気が持ち上がったのである。したがって、街の人気は菊か吉かでまっ二つに分かれ、どうやら芸風の上では吉右衛門に人気があったが、踊りは六代目菊五郎が不世出の 名手だから、花街あたりでは菊五郎のほうがやや人気が優っていた。しかも立て龍る場所は、菊五郎が歌舞伎座、吉右衛門が市村座というのだから、菊のほうが万事派手である。
  その菊吉で御所の五郎蔵を上演。むろん役柄からして菊の五郎蔵、吉の星影土右衛門となるわけだが、この芝居をさらに騒然とさせたことは、五郎蔵が土右衛門と出会う花道で見せる着物に、横山大観が墨絵の雲龍図を描くという添え物が出現したことによる。それは何も、大観が六代目を贔屓にしたためではない。多勢亀五郎という羽前国宮内町のお大尽が、ある夜新橋の料亭に寵愛する名妓のために六代目を呼び、そこで思いついたのが大観描く墨絵の雲龍図というわけで、名妓の機嫌をとる一心から大観を酒席に呼びつけたのだ。
  今はこうした馬鹿なケースもないが、明治、大正、昭和の初めまでの芸術家なるものの風習といえば大方こんなところで、貴族、権力、財閥に奉仕する幇間性は、遠く江戸期から伝習されてd八きたものである。一流作家は白足袋をはき、仙台平の袴に縫紋の羽織を着て、常に白扇を持ち、乞われれば唄い、あるいは踊 りを舞うことをもって一流芸術家のたしなみとしていたのだから、一流作家になればなるほどお座敷における一芸の心得を条件としたものである。
  水戸生まれの気骨ある大観にしてからも、この風習をさけることは出来るものでない。新橋の名妓を寵愛する亀五郎旦那の命によって、大観は六代目のために御所五郎蔵の着物に墨絵の雲龍を描くことになった。そして街の話題は、そのことがさらにプラスとなっていっそう騒然とした。
  ただこの場合、五郎蔵と土右衛門が両花道から四人ずつの子分を連れて現われ、花道の七三で一人ずつせりふのつらねを言って見得を切る時、五郎蔵の見得は、能を見せるためにうしろ向きに格好をつけることになる。そして観客は、六代目の芸や、せりふやそのカツコよさよりも、観客に睨みを効かす雲龍に向かって声 がかかり拍手が湧くという趣向で、菊吉合同もその瞬間だけは龍に食われてしまったほどである。
  その豪華極まる芝居を東の枡席を買い切って、晶辰の芸妓やその一族と大観一党と自らの取引先の顧客を連ね、料亭の女将、歌妓、舞妓の数々をお花畑のょうに並べたとしたら、今なら新聞社の餌食になるところだが、昔の人々は舞台と桟敷を七三に見ながら、歌舞伎とはかくも華かなものかとほほ笑ましく眺めていたも のである。
  さてそれはそれとして、終れば一同と共に料亭に引き揚げ、六代目や播磨屋吉右衛門らを犒(ねぎら)う酒宴が夜半まで続く。そうまでしても多勢家の金は使い切れず、ある時は大観、玉堂、龍子らを故郷山形の赤湯温泉に長逗留させ、知事、警察部長、代議士、県 会議長、警察署長らを呼びつけ毎夜酒宴を張り、大観、玉堂、龍子らに命じては一々色紙や扇面を描かせて座興にしていたのである。政治家の中では、青年代議士の木村武雄、後の元帥を大の贔屓にしていて、選挙の度に、その当時の金で千円という大金を呉れていたから、多勢家が後年落傀してからというもの、彼の子 弟などを武雄もかなり世話して恩義に報いていたらしい。》
(木村東介より 昭和51年)

・多勢組
(昭 和61年、「宮内の歴史を聞こう」と題する宮内青年祭で布施喜一郎さんが「多勢社と羽前エキストラ」と題して語られた。布施さんは、多勢社オリジナルメンバー8名のひとり、布施長兵衛の孫。その時の資料に「多勢社規約」原本のコピーと、明治17年、メンバーが15名になったときの集合写真の名前一覧。この 写真、『南陽市史 下』にありました。)
明治28年(1895)多勢亀五郎脱退(生産規模拡大に伴い、共同出荷より単独出荷の方が効率よく収益性も高いと判断(伊田))明治31年(1898)解散(個々の製糸工場による共同出荷が困難となる(伊田))
(「近代における優等糸生産の展開と製糸技術」伊田吉春 より平成25年)
以上

⑤海老名家
<海老名家(岩城屋)>
「先祖の遺産は消費しない」を家訓とする岩城屋は江戸時代後半から小間物や雑貨、明治の頃から金融宅地業に切り替えて更に大きく飛躍しました。海老名家六代目当主久松は京都との交流を盛んにして家運中興の業績をあげ、この間、多くの文人墨客と交わりました。幕末から明治にかけては頼山陽や離れ座敷の茶席に「団雪庵」と名付けた支峯などが訪れています。長井の店屋造りの典型的な建物で店蔵は江戸時代のもので店と母屋は大正6年の中道大火で類焼したが、岩城屋の伝統を守り類焼前とまったく同じ形に新築しました。入口の格子戸と岩城屋の名の入った小間屋門の「のれん」、店の格子窓とその上のキリヨケと呼ばれる丸く反った小屋根、雨風から漆喰のアオリ戸や窓を守る為、店蔵の窓につけた出窓風の「ワサヤ」など、雪国の風土と長井が商業都市として栄えた頃の面影を残しています。

⑥永仁の古鐘
伊達政宗の生母である義姫(山形城の城主最上義光の妹)が懐妊祈願に訪れた場所としても有名で、それが縁で政宗は天正19年(1591)に古鐘を奉納しています。伝承によると義姫は永禄8年(1565)に伊達輝宗の正室に迎え入れられ、その後、亀岡文殊堂の長海上人に懐妊祈願の依頼を行いました。長海上人が湯殿山で懐妊祈願を行い幣束を御神体(湯殿山の御神体から湧き出る温泉)浸し義姫に届けると、ある晩、湯殿大神の化身と思われる老僧が義姫の霊夢に出現し「義姫の胎内に宿を借りたい」との御告げを受けました。輝宗と相談の上その願いを受け入れると、不思議と懐妊した事から「幣束」に因み「梵天丸(政宗の幼名)」と名付けたそうです。
亀岡文殊堂の古鐘は鎌倉時代後期の永仁4年(1296)に藤原正頼が鋳造したもので、長く伊達家の菩提寺であった資福寺にありましたが、天正19年(1591)に政宗が舘山城から岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封になった際、資福寺も随行した為、亀岡文殊堂に奉納されたと伝えられています。
現地案内板(高畠町観光協会・亀岡文殊略縁起・大聖寺)より
⑦上小松村之絵図(川西町)
享和元年は西暦1801年、伊能忠敬が蝦夷地を測量したのはその前年であるが、欧米列強の船がしきりに日本の近海に出没し始めた時期である。
本原画は上小松蔵田國順家の所蔵である。旧村の時代には同様のものが高橋嘉吉家・小林覚兵衛両家に所蔵されたと伝えられ、上小松以外の図面もそれぞれ複製が何部か作成された。このときの上小松村の村役は肝煎金子十左衛門・金子孝七・佐藤新右衛門・金子代助、
欠代は横山十助・村山元右衛門・酒井永吉、と原画の裏面に記してあった。長百姓は明らかではない。藩政期において複数の村役を置くことは珍しいことではない。
絵図上方(西)に見られる越後海道(街道)は平成の現代と違って諏訪宮と若松観音との間を通って町並みに入っていた。いまでも峠頂上付近の路傍に茶屋の遺構かと思われるものが見られる。にゐ(二井)町、熊小屋、殿原小路、粡町、坂の上、五日町、髭町、田町、美女松などの地名や、古い町並みは現在とあまり違わないが、南禅院、法性寺、安明寺、清養寺、中小松境の龍泉寺などの寺院は、その幾つかが遺構をかすかに残すのみである。
役場前の道路、駅前あるいは駅に向かう道路は大正以後の工事によるので、享和のこの時代にはまだできていない。

惟時(いとき):平成16年6月吉日
発  行:上小松之絵図出版会

⑧庵山(上和田字原)
往時の原の五郎右衛門は上和田村の豪農で当時四百町歩もの田地を所有する地主であった。ところが徳川幕府の年貢(上納金)に多額の負担(賦課)されて究極の余り田地を小作人に無償でくれて歩いと云う祖先であると聞いている。又、五郎右衛門屋敷前に小さな小山がある。これを庵山と呼び、小山のすそ野に庵寺を建て小山の頂上までの七曲りの道端には三十三観音を祀った。庵寺は先祖供養と上和田村人の観音信仰に読経三昧の日が続いていたと云われています。
「和田の昔あれこれ」より抜粋