米沢藩下の置賜地方は江戸末期からの養蚕業の発達以前には青苧・蝋が特産品であり、山形を中心とする村山地方は青苧・紅花が二大特産物であった。青苧はそれぞれ米沢苧・最上苧と呼ばれ、併せて羽州苧とも称されていた。
村山地方の紅花は最上紅花と称されて阿波の藍と並んで二大染料として、全国的名声を博したものであった。明治以後の化学染料使用により衰退していった。
青苧・紅花ともに、この地方の農民のもっとも主要な商品作物として農民経済に重要な位置を占め、停滞的孤立的なこの地方経済を全国的市場に連結する媒介の役割を果たしたものである。
置賜地方は江戸全期を通じて米沢藩のうるぎない支配下にあって強固な領土的統制のもとにあり、村山地方は積極的な領主の統制支配をなし得ない政治的状況下にあった。従って全国的市場への参加の仕方も異なっており、地方経済の発展にも大きな相違が生じたようです。

苧麻(からむし)が古代以来、ことに近世の木綿栽培の普及以前においては最も重要な民衆衣料であったことは今更いうまでもない。
江戸時代になると木綿が大衆衣料として普及するにつれ青苧は一部の自給的な庶民衣料を除いては武家・町人の礼服用、夏の衣料あるいは蚊帳等の特殊なものにとどまるがまだその需要は大きかった。それらの苧布の地方特産品として名をはせたものに奈良晒(さらし)、越後縮(ちじみ)がある。
各地方にも苧布・蚊帳等の特産品があって農民経済に重要な地位を占めており主要部分は上州・会津・羽州であり、特に羽州苧が重要な部分を占めている。
江戸時代、米沢藩が最も力を注いで生産の増加と統制を図ったものは青苧でした。
置賜地方における青苧産地は最上川上流両岸の山麓地帯、すなわち下長井郡東通・西通が主で、他は北郷にわずかある程度である。
当時すでに青苧が農民経済にとって貨幣経済に対応するための商品作物として重要であることを支配者側も認めていた。

この青苧を上方市場に一手販売したのが特権御用商人の西村久左衛門である。西村家は元々、近江の住人で信長の家臣で、その後蒲生氏郷に仕え会津、米沢に住した。上杉景勝の入部を迎えて先方衆として再び奉公し、上方との連絡をもつところから米沢藩の御用達を勤めることとなった。

西村家は京の東洞院四条上ル町に店を構えて、青苧の他に蝋、蝋燭、紅花等米沢藩内の国産品を引き受けて繁昌した。しかし元禄頃から米穀輸送のため最上川上流の販路開発工事に莫大な投資をして以来すっかり家産を傾け、その後身上を潰してしまった。
村山地方における青苧の生産地帯は白鷹山塊周辺諸村と出羽丘陵東麓の宮宿・左沢・七軒・大谷・谷地方面が主であった。元禄5年以降は山形領からの青苧・紅花の出荷高をみると青苧は紅花のほぼ二倍になっています。そして、米沢藩と違い各藩領に細分化され、左沢藩を除いて青苧について専売制はみられず有力豪商がその商圏を支配し大規模な集荷販売網を確立していた。

紅花は古くから藍・茜・紫根・刈安などとともに染料植物として最も代表的なものであった。
品質と数量において全国第一位を占め、産地は現在の山形市周辺すなわち村山地方である。
明治8年は紅花が化学染料に押されて衰退する直前ですが、その頃においても山形地方に入る収益年額の三分の一は未だ紅花であった。そして、元禄期から盛んになり寛政~文化以降最盛期でしたが、明治10年以後は急激に衰退していきました。
最上紅花はほとんど京送りで大石田から最上川を下り出荷された。明治12年になると出荷品は第一位は米で菜種・藍・青苧・煙草がこれに続き、紅花は僅かに痕跡をとどめるばかりになっていた。
紅花産地は南村山郡北部・東村山郡・北村山郡南部・西村山郡東部で村山盆地の中心部一帯である。そして、紅花荷主の豪商が集中し、集荷の中心をなしたのが山形をはじめ谷地・天童・楯岡・寒河江等の町場であった。紅花は青苧よりも耕作に手数や技術を必要としただけ値段で高価であり、それだけ農村経済にとっての比重は大きかった。

羽州村山地方の第一の特産品である紅花に対して領主経済のための吸収策として、ことに経済的後進地帯に特徴的な政策である強力な藩専売制が実施されなかったのは、その中心部を押える山形藩は領主交替がはげしく、商品生産を確実に掌握する政策を展開するまでのゆとりと力を持ち得なかったことがその一因とみられる。しかし、山形水野藩にして実施しえなかった紅花専売を僅か二万三千石の天童織田藩が実施に踏み切ったことは注目すべき唯一の例である。村山地方は小藩分立による藩権力の弱体化、藩領の分散性による統制の困難等の理由に加えて既に紅花の流通機構は確立していた。なお、幕末といゆ幕藩体制の崩壊期の時代的背景も考慮すべき条件ではある。


以上
「青苧と最上紅花」伊豆田忠悦著1979年より抜粋