鋭い観察力で日本の実相を記録した希代の旅行家
イザベラ・バードはイギリスの女性旅行家。
明治時代の日本を訪れ、その旅行記をまとめた「日本奥地紀行」の著作で有名です。
彼女は日本以外にも、ハワイ、ロッキー山脈、マレー半島、ペルシャ、クルディスタン、朝鮮、中国に関する旅行記を残しています。その中でも日本は多く訪れていており、都合5回ほど来日しました。
旅の目的は、東京から北海道(蝦夷地)まで、明治維新当時(明治11年6月~9月)の日本の地方の住居、服装、風俗等の生活文化や自然を細かく書き留め、近代以前の日本の情勢を旅を通して記録に残すこととキリスト教普及を念頭に置き、その可能性を探る為に宣教師のいる場所にも立ち寄るよう計画をされていた。旅はハリー・パークスが英国公使としての立場から企画立案した。バードは彼の依頼に真摯(しんし)に応え、使命感を糧に完遂した。日本での旅の記録は、全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』としてまとめられた。同書はこれまで言われていたような旅先から妹へ送った私信を集めたものでなく、半ば公的な報告書だった。
・距離は、北海道の旅が、東京から平取まで陸路で約1400キロ、函館―横浜間が海路だった復路を含めると約2750キロ。関西・伊勢神宮の旅は、陸路が約580キロで、横浜―神戸間の船旅を含めると約1850キロとなる。二つの旅を合わせると全行程で4500キロを優に超えていた。パークスの尽力で地域的・時間的制約のない特別の内地旅行免状を取得して初めて成し得た旅だった。
また、旅は行き当たりばったりのものではなく、用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていた。例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実相を明らかにするためだった。旅で用いたブラントン日本図もパークスの命によって彼女のために作成されたものだった。
解説:地理学者 金坂清則
<置賜地方記録編>
①小松
手の子から10㎞歩いて小松に至った。ここは素晴らしい場所に位置する。人口3000人の町は綿製品や絹と酒の取引が盛んである。宿屋に着いた時にはすでに多くの群衆が私の方に押し掛けてきた。群衆が裏の屋根に上って夜までじっと座っていた。私が前を通った家はほとんどの家で糸を操る仕事をしていた。
②吉田・洲島・黒川・高山・高橋
どの村にも幟が二本立っていた。半数ほどの村が祭りを祝っているようようだった。女の子はみなこってりと化粧をしてもらっていた。
③津久茂
それまでの道幅1.2mから7.5mの道に遭遇し両側に側溝があり、道沿いに電信柱が続く突然の新世界とその下で大人の男が日よけの笠に団扇(うちわ)だけの身なりでいたり、本と石板を手に下校途中の子供たちは学んだことを諳(そら)んじながら歩いているその不調和は私には衝撃だった。
④赤湯
硫黄泉の温泉町の浴場はいずれも混浴の人で溢れ、大声が響き渡っていた。そして入った宿屋は三味線がかき鳴らされたり、琴がキーキーとつま弾かれる部屋でほとんど塞がっており、その騒音にはとても我慢できなかった。
明治期の日本に欧米人が驚いた
「貧しくても貧困ではなく、前向きな庶民と無防備すぎる家」
①1856(安政3)年に下田にやってきた初代アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス(1804-1878年)は、このようなことを記している。 「この土地(筆者注:下田のこと)は貧しく、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、装飾的なものに目をむける余裕がないからである。それでも人々は楽しく暮しており、食べたいだけ食べ、着物にも困ってはいない。それに、家屋は清潔で、日当りもよくて気持がよい。世界の如何なる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」
―ハリス著、坂田精一訳『日本滞在記(中)』(岩波文庫)、103ページ
②江戸時代が終わり、明治時代も終盤に差し掛かった1909(明治42)年、ロシア国籍のタタール人、アブデュルレシト・イブラヒム(1857-1944年)は日本を訪れた。その彼は、こう書き残している。
「日本の治安は完璧である。町であろうと村であろうと、盗難などの発生はめったにない。私はよく野山を一人で歩きまわった。途中で疲れきって眠りこむこともよくあった。ときには手元にいくばくかの荷物もあった。しかし、一度たりとも盗まれはしなかった。滞在していた宿の主人を観察していても、門に閂(かんぬき)をかけるような習慣はまったくないようだった。たとえそうしたとしても、あんな壁では一蹴りされればたちまち倒されてしまっただろう」
―イブラヒム著、小松久夫他訳『ジャポンヤ』(第三書館)、209ページ
③イザベラ・バードが東北を旅行し、宿泊した宿で女中さんにとても良くしてもらったため、翌朝の出発時に心付けとしてお金を包んで渡そうとしました。ところが女中さんはこれを受け取らず、「私は女中として自分のすべきことをしただけのことですから、お金をいただくわけにいきません」と言うのです。日本にはチップという制度がないので受け取らなかっただけのことかもしれませんが、「仕事を誠心誠意、心を込めてやる」というのが日本人です。お金が先にあって仕事をしているわけではない、ということがこの女中さんの態度からわかります。また、この女中さんのエピソードは、日本人の「自己の確立の高さ」も物語っています。
④エドワード・S・モースという、1877年に大森貝塚を発見したことで知られるアメリカの動物学者がいます。発見は発掘調査をともない、日本の考古学の先鞭となりましたが、ダーウィンの進化論を紹介して生物学を定着させた人物としても知られています。
モースは日本を気に入り、3度にわたって来日しています。研究の傍ら、関東だけでなく、北海道、関西、九州と日本中の風土を見て回りました。モースは日本での体験を1917年に、『Japan Day by Day(邦題/日本その日その日)』という著書にまとめています。
モースが来日中、最も感心したことは、「日本人は他人のものは盗まない。日本人はしてはいけないことはしない」ということでした。
「私は襖を開けたままにして出かけるが、召使いやその子供たちは、私の部屋に出入りこそするけれど、お金がなくなったことがない」と、たいへん驚いています。
また、モースがある女性医師と東京の街を人力車で移動をしている時のこと。道路の傍らで盥たらいに湯を張って裸で行水をしている若い女性に出くわしました。
モースは「オイオイ、あんなところで行水をしているぞ」と言って思わず見入ってしまいましたが、彼と女性医師を乗せた人力車を引いている車夫はまったくそちらを見なかったのです。
モースは「我が国では、特に車夫のような肉体労働に就いている男はたしなみがなく、裸の女とくればまずはじろじろと見てしまう。ところが日本人の若い車夫は一切、そんなことはしなかった」として、これもまた大いに感心しています。
「幕末・明治の日本は外国人にどう見られていたか」
ニッポン再発見倶楽部 著、三笠書房 発行
日本人にとって当たり前のことは、敢えて書き残さないもの。当時の常識はどんなものだったのか。
むしろ、日本を客観的視点で観察した記録は、外国人の書き残したものの方がよくわかることがあります。
この本は、江戸時代末期(幕末)~明治時代に日本を訪れた外国人達が書き残した文章から、分野別に抜粋した内容です。
私が好きな人物…ハインリッヒ・シュリーマンをはじめとして、エドワード・S・モース、イザベラ・バード、ブルーノ・タウト、ラフカディオ・ハーン、エドウィン・フォン・ベルツの名前もありました。
欧米と日本の文化の違いや、同じ日本でも現代と当時の文化の意外な違いがわかり、興味深く読みました。
育児文化は150年前も今もあまり変わらないのですねえ。
医学に関しては分析的な西洋医学からみると、経験的・帰納的東洋医学は「遅
れた医術」に見えたようです。しかし現在、漢方薬ブームで世界中からの需要があり生薬価格が高騰している状況を考えると、どちらが正しいとは決めつけられないと思います。
□ 江戸の上下水道
江戸の地下には「木樋」(もくひ)と呼ばれる配水管が巡らされ、各町に設置された井戸(湧水の井戸ではない)まで水を運んだ。この上水システムにより、江戸の約6割の人々が水道を利用することができた。
下水はといえば、当時の人々は屎尿をすべて肥料にしていたため、わずかな生活水を流す溝程度のものさえあれば十分だった。屎尿をそのまま放流し、川が汚水で汚れていた西洋諸国とは大違いだ。
しかし明治維新後、西洋化が進むと汚水が放流されはじめ、飲料水として使用できないどころか、衛生状態はどんどん悪化してしまう。
ようやくヨーロッパ式の下水道が建設されたのは1884年(明治17)年のこと。日本は水道設備の整備を進め、再び世界有数の水道先進国となった。
□ 江戸時代に花開いた園芸文化
江戸時代は園芸文化が大きく発展した時代だった。植木鉢が普及し、庭がなくても草花を育てることが可能になったこともあり、将軍家などの上流階級から庶民に至るまで広く園芸が広がり、品種改良熱が高まった。
□ 世界屈指の治安のよさ
「こんなに泥棒が少ない国は珍しい。その理由は法律が厳格に施行されているためで、泥棒が捕まると命は決して容赦されない。」(フランシスコ・ザビエル)
江戸時代は泥棒をすると容赦なく死刑にされた。
※ 江戸時代の窃盗罪
強盗殺人:市中引き回しのうえ獄門(公開死刑後さらし首)
追いはぎ:獄門または死罪
強盗傷害:死罪
空き巣:むち打ちの後、入れ墨を入れられる
□ 江戸時代の入浴習慣
上級武士の家には内風呂があり、庶民は銭湯を憩いの場として楽しんだ。風呂の種類も多彩;
・戸棚風呂:蒸し風呂の一種
・据え風呂:現在のようにお湯に肩までつかる
・鉄砲風呂:おけに鉄の筒を入れて下で火を炊く
・五右衛門風呂:桶の底に平釜をつけて湯を沸かす
日本人の風呂好きは、幕末明治に渡来した西洋人達を大いに驚かせた。当時のヨーロッパでは貴族階級であっても風呂に入るのは数ヶ月に一度くらいの頻度であり、庶民の間で風呂に入ることが習慣化したのは第一次世界大戦以降のことだった。
□ 日本人の識字率は当時世界ナンバーワン
幕末の武士階級の識字率は100%、町人・農民ら庶民層も4割ほど読み書きができ、中でも江戸の子どもの識字率は7~8割と高く、中心街に限れば9割に達した。
江戸時代の日本では寺子屋が普及していたためである。
□ 時代劇でも採用されない化粧法「お歯黒」
お歯黒とは、鉄漿(かね)という液体を使い、歯を真っ黒に染める化粧法。鉄漿は小間物屋などで売っているわけではなく、女性が自分の家で手作りする。
まず壺に古釘などの鉄を入れ、米屑や水と混ぜて数日間おいて錆びさせる。このとき出てくる汁が鉄漿である。ただし、黒手はなく往昔色をしているので、前段階として「五倍子粉」(ふしこ)を歯に塗らなければならない。五倍子粉とは、五倍子虫(ふしむし)が木の幹や枝に作った瘤上の塊を粉にしたもので、タンニンを多く含み、染色やインク製造などにも用いられる。この五倍子粉を塗ってから、刷毛で何度も鉄漿を塗ることでようやく歯は真っ黒になる。鉄漿は強い刺激臭がするし、皮膚にも悪いから、歯茎や唇につけないよう細心の注意を払う必要がある。
奈良時代頃から上流婦人の間で行われ、やがて庶民にも普及した。江戸時代以降はお歯黒が気根であることを示したり、決まった贔屓客(=パトロン)がいる芸者のしるしと見なされるようにもなった。
西洋人には不評で「恐ろしい習慣」(ペリー)とまで言い切っている。
当時は顔を真っ白に塗りたくる厚化粧がふつうであり、西洋人は「人形のよう」とか「死人のよう」と評した。
現代の化粧は、自分の自然な表情や魅力を引き出すために行うが、当時の化粧は喜怒哀楽を押し隠すためのものだったのだ。感情を露わにするのは不作法ではしたないことと考えられており、化粧をして表情を読み取られないようにするのが礼儀とされていた。
□ 武士のちょんまげはサラリーマンのネクタイ
ちょんまげは、昔の男性にとっては会社員のネクタイのようなものであり、一人前の成人男性として社会に参加していることの証明だった。年を取って髪の毛が薄くなり、ちょんまげが結いにくくなると、昔の男性は隠居か出家を考えた。
明治時代になるとちょんまげは姿を消していく。1871(明治4)年、明治政府は「断髪抜刀勝手令」を出した。
□ 名誉・礼節を重んじる国民性は「武士道」由来
日本人が名誉にこだわるようになった理由は、武家社会で武士道の精神が育まれたからである。新渡戸稲造によると、武士の子は幼児期から名誉を教え込まれ、「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で振る舞いを矯正されていた。
その究極の行いが切腹であり、名誉を守るため、または傷つけられた名誉を回復させるためにはむず~腹を切って死ぬしかないと考えられていた。古来、腹部には人間の霊魂が宿っていると信じられており、腹を切ることが武士道を貫く方法とされてきたからだ。
「日本人は誇り高く自尊心の強い性格で、侮辱に対して敏感、・・・この鋭敏すぎるほどの道義心が復讐心に結びついて、腹切りという名で知られる異常なまでの自己犠牲をなさしめるのである」(スエンソン)。
★ 切腹の作法★
1.切腹刀を左手で取りあげ、刀の下から右手を添えて、目の高さに持ってくる。
2.切腹刀を右手に持ち替えたら、切っ先を左脇腹に突き立て、右腹の方に切り裂く。
3.切腹刀を一旦抜き、刀をみぞおちに突き立て、へその下まで切る。その後、介錯人が一気に首を切り落とす。
※ 江戸時代は腹を切らず、すぐに首を切り落とした。
□ 世界遺産の“和食”の評判は当時悪かった
少ない食事量も食材も西洋人から見ると不満だったようだ。
明治以前の日本には、獣肉を食べたり、牛乳を飲んだりする習慣は定着していなかった。実際にはごく稀に鶏やイノシシを食べることもあったが、公然とは食されておらず、滋養を得るための「薬喰い」と称された。その理由は宗教で説明される。神道では肉食は穢れと見なされており、仏教では殺生は禁じられており、肉食はタブー視されていた。
明治時代に入ると、政府は近代化の一環として国民に肉を食べるよう奨励した。政府は明治天皇に肉を食べてもらい肉食を宣伝し、これをきっかけに都市部では牛鍋を食べるのがブームになった。
□ 食事のマナー
日本人は7世紀頃から箸を使っている。
ヨーロッパではフォークやナイフが使われはじめたのは16世紀頃からで、それまでは王侯貴族でさえも手づかみで食事をしていた。
□ 日本における結婚のしきたりの変遷
古代 ・・・ 恋愛結婚:乱婚または雑婚で一人の相手に縛られない自由な結婚形態。
飛鳥・奈良時代 ・・・ 恋愛結婚:男子から媒酌人を通し、女子の父母に申し入れて承諾を得る。
平安時代 ・・・ 恋愛結婚:和歌や文などのやりとりを本人同士で行い、男が女の家に通って共寝する。
鎌倉・室町時代 ・・・ 見合い・恋愛結婚:公家は嫁取り婚、武士は嫁迎え婚を行う。相手はある程度自由あり。
安土・桃山時代 ・・・ 見合い・恋愛結婚:嫁迎え婚が基本となる。式三献やお色直しなどの現代の結婚式の次第が始まる。
江戸時代 ・・・ 見合い結婚:仲人や親が相手を取り決め、結納を交わす。武家では本人に選択の自由はなかった。
戦国時代の離婚は女性の恥になることではなかった。ところが江戸時代になると、妻は夫の離縁状を取らなければ離婚できない状況になる。女性が唯一離婚を請求できる方法が、尼寺への駆け込みだ。江戸時代に幕府が認めていた「駆け込み寺」は鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺で、この寺で足掛け3年在寺すれば、夫から離縁状を受け取ることができた。
一夫一婦制はあくまで妻が跡取りを産んだときに適用される決まり事だった。不幸にして跡取りができない場合は「夫は家系を守るために子孫を育てるために女を置くことが公然と認められ、またその妻からも強く勧められる」(グリフィス)ことが多かった。当時の男性にとって、妾を持つことは男の甲斐性だった。
平安時代の「和歌や文などのやりとり」で恋愛感情を高めていくなんて、ちょっとロマンチック・・・現代人に出来るかなあ。
□ 同性愛事情
日本には古くから同性愛の風習があった。日本人の同性愛と言えば、仏教寺院での男色が有名で、僧侶が稚児と呼ばれる召使いの少年を相手に色事を行っていた。
武家社会でも男色は存在し、源義経と弁慶、織田信長と森蘭丸などが同性愛カップルだったと言われている。戦国時代は女性蔑視が強く。男色が賛美される傾向にあったため、男色がごく当たり前のように行われていた。来日した外国人はこうした日本の同性愛事情に驚愕した。
□ 子どもに甘い日本人、厳しい西洋人
ベネディクトは双方の育児様式を比較し「日本人は子どもを徹底的に甘やかせて育てる」「西洋人は子どもに対して躾が厳しく、体罰を与えたり、食事なども大人とは別に与えるなど厳格である」と分析。その具体例として「赤ん坊が泣くと日本人の母親ならすぐ抱いてお乳を与えて泣き止まそうとするが、西洋人は決まった時間にしか乳は与えないで泣いたままで放っておく」ことを挙げた(菊と力)。
□ 遅れた(?)医療レベル
ツュンベリーは日本の医者の脈の取り方を見て「病人の脈拍を教えようとするときは、まず一方の脈を取り、次いでもう一方の腕を取っており、量脈拍数はまったく同じであることや、一つの心臓から血液が両方へ流れていることを知らない。彼らの脈のはかり方はまた、きわめて長いので15分はかかる」と記している。
・・・これは西洋医学的視点での記述であり、東洋医学を理解していないことをさらけ出してしまう文章です。
東洋医学の「脈診」は三本の指で手首を触れ、そこから体の情報を引き出す高度な技術です。左右両方行います。中国の皇帝のお抱え医は脈を取って病を見極め、見立てが外れると死罪になるという緊張感の中で診療をしていました。当然、時間をかけて慎重に行います。
□ 遊女の立場、西洋と日本の比較
遊女の多くは16~17歳くらいでデビューする。実働年数は8~9年程度で、25歳まで働けば開放される。西洋では売春婦になると、そこから抜けだすことはほとんどできなかった。
それに対し、日本の遊女は一定年数働けば更生するチャンスが与えられた。
その理由は、本人が希望して遊女になったのではなく、親の都合でならざるを得なかったというケースが多かったからだ。遊女の出身階層をみると、北国の貧しい農民の娘が大半だった。彼女たちは、わずか6~7歳で両親によって売られ、禿として姉妓に仕え、読み書き三味線などのたしなみを教わりながら育てられた。