置賜の知られざる宝
⓵持仏堂 伝承によると、江戸時代、和田村馬頭の地において行き倒れた大阪の豪商鴻池氏を遠藤家が引き取り二年間にわたり各地の名医や薬と献身的な看病を尽くしたが病気が治らなかった。そのお礼に鴻池家と同じ持仏堂を二つ作り一つを遠藤さん宅に贈られたものです。絢爛さ、内扉や天蓋等の螺鈿刻に極彩色が施され、天翔ける天女と涅槃の釈尊を取り巻く悲嘆の弟子とがよく心理的に表され名工の作とうかがわれます。神仏習合様式の荘厳なもので現在も馬頭東地区の遠藤家が所有しています。以上「和田の昔あれこれ」より抜粋 ⓶青葉の笛最近は「青葉の笛」といっても知る人は少ない。 しかし年輩の人であれば、「青葉の笛」といえば誰 もが知っている有名な笛である。明治の頃から「青葉の笛」という小学校唱歌が広く教えられていたからだ。「一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達哀れ 暁寒 き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛」という 歌詞である。 この歌が普及するにつれて、「青葉の笛」といえ ば源平の戦いで破れた平家の公達(敦盛)が所持し ていた、あの有名な笛と考えられるようになった。しかし、妙なことに「平家物語」には敦盛が所持 した笛は「青葉の笛」ではなく「小枝」と記されている。さらに、日本全国に「青葉の笛」とよばれる 笛が八管以上知られている。源平合戦の最後の戦い、壇ノ浦の戦いで平家は滅んでしまうが、生き延びた平家一門の中の落人らしい人が上和田浅森の旧家先代二宮三郎右衛門氏の家を訪れしばらく宿を取らせてほしい旨を伝え、そこで二宮家では快くその願いを受け入れ親切にもてなした。そして、数年が過ぎ二宮家との別れの当日にその落人がお礼として青葉の笛と水玉を贈った。なお、現在遺されている笛は家宝の為、和田の郷社「高房神社」の本殿そのままの形に縮小した総けやき造りの社殿に所蔵されている。以上(東洋音楽学会会員:ペンネーム美濃晋平氏解説及び「和田の昔あれこれ」より抜粋 ③明海上人即身仏は日本全国に二十数体があり、そのいずれもがそれぞれの地方で厚い信仰を受けている。特に山形県の庄内には6体の即身仏があり、置賜には2体ある。ミイラを大別すると天然ミイラと人工ミイラとがあり、天然ミイラは偶然に乾燥によって出来たミイラで、常信庵のミイラはこれに属している。人工ミイラにはエジプトの即身仏を始め、日本の大部分の即身仏もこれに属し、明海上人の即身仏もこれである。日本での即身仏(人工ミイラ)は弥勒菩薩信仰からきており、弥勒菩薩がこの世に現れるのを待つために即身仏になろうとしたものと思われる。明海上人は小中沢、鈴木嘉左衛門(現松本家)の長男に生まれ、15歳で眼病を患い18歳で盲目となった。22歳から戒行を始め、常人の及ばない木食、禁塩、荒行を行い、26歳で湯殿山の行者と海号を授けられ、28歳で御室仁和寺から上人号を許され、33歳には亀齢山、明寿院の山号、院号を賜り、39歳で印可を授けられた。官職は納言同格の官位で乗輿を許された。紅色の衣を着て、銀色の袈裟をかけ水晶の数珠をつまぐり長柄の傘をさし、ご室殿直本寺となり、藩の行人派惣録所を命じられた。又、人々の病を祈祷し、火災を鎮め橋を直し、困窮者を助ける等、人々の為に尽くしたが病弱だった為44歳で亡くなった。明海上人は信仰心厚く、荒行をやった行者であった。又、個人所有の即身仏はここだけである。以上昭和56年発刊「三沢郷土史」より抜粋 ④多勢丸中家◎ヒストリー・上杉謙信が越後で力をつけたのは青苧のおかげだった。 ブランド化していた越後産青苧流通の支配・直江兼続が越後の青苧生産のノウハウをそっくり置賜に移植した。藩買上制→藩専売制。《青苧座は織豊政権による座の撤廃と上杉氏の移封によって力を失うことになる。そして皮肉なことに、越後の青苧が江戸時代の元禄年間に没落した最大の理由は、上杉氏の移封とともに青苧栽培技術が伝来された会津・米沢両藩産の青苧との競争に敗北した影響が大きかった。》(ウィキペディア「青苧座」)・鷹山公「最終製品化して付加価値を」→米沢織 安永5年1776、越後縮の織師を招く。青苧→麻絹交織→絹織物。・そもそもこの地域は古代より養蚕の盛んな土地だった。 米沢 白子神社(しろこじんじゃ)創建が和銅5年(712)。《神のお力によって桑の林に無数の蚕が生まれ、沢山の繭を作ったので、桑の林やあたりの菅(すげ)が雪に覆われたように真っ白になった。この不思議な出来事により、この地を白蚕村(しらこむら)と名付け、和銅5年(712)に社を造営して蚕菅社(こすげしゃ)と称し、白蚕明神(しらこみょうじん)とした。》(米織歴史散歩) 漆山 岩倉様信仰。貞観年中(859〜877)慈覚大師による開山。天保13年(1822) 社殿再建。現在はない。《岩倉神社は笹子平、焼ノ平の西北部の岩山の頂上に奥の院がある。祭神は厳島弁才天黄金富主家命といわれ、慈覚大師の開基と伝えられている。・・・この神社は養蚕安全守護神として強い信仰を受け、信者は西置賜郡、米沢市など置賜一円は勿論のこと、遠く福島、喜多方、東京方面からも参詣があった。また火伏の神としての信仰、商売繁昌の神としての信仰も厚く、米沢市内の織物業者らがよくお詣りに来た。/この神社の祭礼は旧四月一日で、参詣者はお宴銭と鶏卵を持ってゆく。岩倉様には白蛇が棲んでいるといわれており、蛇は岩倉様のお姿であると信じられているから卵を持ってゆくのだという。/祭り当日は神主がいて養蚕安全のお札やねずみ除けのお札を受けることができる。お札には蛇の絵が描かれており、そのお札を蚕室か神棚に納めておく。》(奥村幸雄『置賜の民俗』7.8合併号 昭和51年) ◎製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-2018/08/26昭和55年のこと、当時「地域主義」の第一人者清成忠男法政大教授への講演依頼から始まった「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」シンポジウム。そこで問題提起者のひとり石黒龍一郎さんの発言、《歴史を顧みますと、戦前この宮内地内は商工業の町といわれ、たしかに周囲10Km以上の範囲に商圏をもち、お得意様と町の商人の関係は親戚以上のものがありました。しかし、工業においては、製糸工場の経営者というのは、工業的感覚での経営というよりむしろ、商業的才覚での経営であったという事実があります。つまり、工場内の品質管理、品質の向上とか、生産工程の能率化という工業的なプロセスにそのエネルギーを使うよりは、何とか商売で当 てて、もうけてくれましょう、うまく相場の波にのりましょう、原料を安く買いましょうという方向へ精力を傾けてきました。その結果、純粋な工業的認識に乏しく、この地には工業技術の蓄積というものが、ごく一部を除いては無い、つまり技術的に成長しなかった。この風潮は今も尚、底流となって宮内の工業の中にあり、それが欠点のひとつではないかと考えられます。したがいまして、われわれ工業人は、戦前の商業主義的工業の範躊を脱し、より高度なものへの激しい挑戦の意欲をもった「工業する心」を確立してゆくことが第一の課題であります。商業主義的工業、準工業的姿勢ではどうしても装備は軽装になりがちであり、身軽でありがちです。われわれは「技術力」という有形の財産にも劣らない無形の財産を残すにはどうするか、深く考えるべきだと思われます。》「羽前エキストラ」の再認識でその改変を迫られた。この地域にはむしろ、高品質志向の伝統が昔から伝統としてあったのではないか、ということだ。そしてそう思った方がずっといい。石黒さんは、信州の製糸業が、諏訪のセイコーエプソンのような先端工業への転換を評価した。しかし、「女工哀史」とは無縁のこの地域には「ないものねだり」だったのではないか。ないものねだりするより、実際にあったいい面を評価して伸ばした方がいい。「羽前エキストラ」がそういう目を開かせてくれた。 以上・昭和55年(1980)三商工会青年部共催シンポジウム「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」報告書作成。市内各所の写真を掲載、当時「置賜新聞」記者だった加藤茂氏と写真を撮って回る。そのとき初めて丸中邸へ。「必死で守ってきた」というトシさんの案内をうける。) 平成28年(2016)登録有形文化財(建造物)に登録(文科省文化審議会)より ◎「羽前エキストラ」(大竹しのぶ主演の映画「野麦峠」の製糸工場ロケは高畠の長谷川製糸だった。野麦峠を地元の人は「野産み峠」と言ったという。飛騨から信州へ峠を超えて行った若い娘たち、飛騨へ戻るとき、ひとり列から抜けて笹薮に入り、そこで堕胎する娘が少なからずあったとか。しかし山形ではそうした「女工哀史」とは無縁であった。6割位は家からの通勤だった。給与は平均して年間200円。300〜400円もあった。1万倍すれば現在の金銭感覚におおよそ合うのではないか。優秀な工女3人も居ればたしかに蔵が建つ。それを保障したのが「羽前エキストラ」だった。) ・「製糸業」は「生死業」《製糸は、カイコの吐いた繭糸を一本並べに引き揃えて目的の太さと長さの糸を作る縄ないにも似た単純な加工工程を中心に構成されており、生糸販売価格の8割が原料繭代で占められる利益の薄い産業であった。そのうえ季節産物の繭を一括購入する大金の購繭資金の殆どは借入金で賄われた。一方出来た生糸の価格は支 払った経費に関係なくその時々の相場で決められた。このように製糸業は「生死業」と言われるように先の見えない不安定要素を含んだ産業であった。そのため多くの先輩の倒産を目にし、自らも辛酸を舐めてきた諏訪の製糸家は、犠牲を払ってよい生糸を作り高値で買ってもらうより、屑物を少なくし て確実に大目の生糸を手にする「糸歩増収」の道を選んだ。その結果、糸口の求まる最低の煮加減に抑えた硬めの繭を熱い湯に浮かべて煮不足を補いながら糸を繰る「浮き繰り法」の中でも糸歩を最も多くする「諏訪式製糸法」と言われ全国に普及する独特の方法を案出するのであった。》(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年)・置賜では最初から高品質生産を目指した。《糸は細いほど高級です。普通糸(21デニール)が繭7、8個から1本の糸を取り出すのに対して、羽前エキストラ(14デニール)は繭5個から1本です。それが可能になったのは、繭を十分煮た上で糸を取り出す沈繰法(普通は浮繰法)によってです。多勢亀五郎が群馬の古老からその秘伝を承けてこの地域に広めたといわれます。東置賜15社で組織した多勢組がその役割を担いました。二流品(横糸用)で大量生産の信州諏訪方式に対して品質優先(ヨーロッパ向け縦糸用)の山形方式、その成果が「羽前エキストラ」の名を世界に轟かせることになりました。》(世界に誇る優良生糸「羽前エキストラ」 『宮内よもやま歴史絵巻』より 平成16年)・時代の先端をゆく「山形方式」《明治の終わり日本生糸は量的には世界一となったが、品質は織物の「よこ糸」用の二流品であった。更なる輸出の増大には欧州糸が占有している「たて糸」分野への進出が必要であった。そのためには生糸を構成する繭糸本数(粒付け数)の管理を徹底して生糸の太さを揃え、繭を良く煮て生糸の抱合を良くする必要があっ た。軽め煮繭浮き繰りの諏訪式繰糸法ではその要望に応えるのは困難であった。政府は大正に入ると、「信州式浮き繰り法」から「たて糸」用生糸作りの、繭を良く煮熟し、繰られている繭だけが湯面に頭を出す、山形流の「沈繰(ちんそう)法」への技術転換を積極的に指導した。》(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年) ◎どのぐらい儲かったか?・大正4年(1915)の多勢吉郎次家(丸多製糸場) 年間推計売上額235,717円–生産費用133,340円=推計収益額102,378円 推定従業員数150人で計算すると、一人当たり売上1,571.4円。一人当たり収益682.5円 *この年の給与所得者年収333円、大工手間賃1.1円(1日)。消費者物価指数(都市部)1915/2015:1/3110。 *エヌデーソフト(株) 2017年度売上(単独)80.3億円 営業利益(単独)15.1億円(純利益10.8億円)従業員(単独)376名→一人当たり売上2,136万円。一人当たり収益402万円(株)かわでん 2018年度売上188億円 営業利益8億円 従業員564名(2014)→一人当たり売上3,333万円。一人当たり収益142万円 (「近代における優等糸生産の展開と製糸技術」伊田吉春より 平成25年) ◎二代目多勢亀五郎(多勢金上)と横山大観・名作 六曲一双「紅葉」図 多勢延太郎は、初代亀五郎の孫にあたり二代目亀五郎を襲名します。製糸業絶頂期、二代目亀五郎は画を愛し、横山大観、川端龍子、小杉放庵、鏑木清方といった当代きっての画家たちと交流を重ねました。 今では「大観作品の中でも最も絢爛豪華な屏風」として横山大観の代表作に数えられる六曲一双「紅葉」は、当時あまりの斬新さゆえに買い手がありませんでした。亀五郎はその絵を二万四千円で買い取ったのです。大観は大変感激して、お抱えの表具師と共に多勢家に飛んできました。昭和六年のことです。この屏風絵 はいま、島根県の足立美術館の看板作品として毎年秋に一般公開されています。・大観が画いた菊五郎の舞台衣装 「昭和の初め頃、羽前宮内に多勢亀五郎という紀文大尽のような男が出た。」 すぐれた審美眼と持ち前の侠気で名を成した米沢出身の美術商木村東介は『不忍界隈』(大西書店1978)の中で、亀五郎(延太郎)の桁外れの御大尽ぶりを紹介しています。 亀五郎寵愛の名妓との宴席に、全盛期の人気役者六代目尾上菊五郎を侍らせ、さらにその場に横山大観を呼びつけて六代目の舞台衣装の絵を画かせ、歌舞伎座東の枡席を買い切ってなじみの芸者、大観一統、得意客を並べ、花道でその衣装姿の六代目に見得を切らせたというのです。(注5) ・妹背の松をモチーフにした「相生の松」 ...