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置賜の知られざる宝

⓵持仏堂 伝承によると、江戸時代、和田村馬頭の地において行き倒れた大阪の豪商鴻池氏を遠藤家が引き取り二年間にわたり各地の名医や薬と献身的な看病を尽くしたが病気が治らなかった。そのお礼に鴻池家と同じ持仏堂を二つ作り一つを遠藤さん宅に贈られたものです。絢爛さ、内扉や天蓋等の螺鈿刻に極彩色が施され、天翔ける天女と涅槃の釈尊を取り巻く悲嘆の弟子とがよく心理的に表され名工の作とうかがわれます。神仏習合様式の荘厳なもので現在も馬頭東地区の遠藤家が所有しています。以上「和田の昔あれこれ」より抜粋 ⓶青葉の笛最近は「青葉の笛」といっても知る人は少ない。 しかし年輩の人であれば、「青葉の笛」といえば誰 もが知っている有名な笛である。明治の頃から「青葉の笛」という小学校唱歌が広く教えられていたからだ。「一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達哀れ 暁寒 き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛」という 歌詞である。 この歌が普及するにつれて、「青葉の笛」といえ ば源平の戦いで破れた平家の公達(敦盛)が所持し ていた、あの有名な笛と考えられるようになった。しかし、妙なことに「平家物語」には敦盛が所持 した笛は「青葉の笛」ではなく「小枝」と記されている。さらに、日本全国に「青葉の笛」とよばれる 笛が八管以上知られている。源平合戦の最後の戦い、壇ノ浦の戦いで平家は滅んでしまうが、生き延びた平家一門の中の落人らしい人が上和田浅森の旧家先代二宮三郎右衛門氏の家を訪れしばらく宿を取らせてほしい旨を伝え、そこで二宮家では快くその願いを受け入れ親切にもてなした。そして、数年が過ぎ二宮家との別れの当日にその落人がお礼として青葉の笛と水玉を贈った。なお、現在遺されている笛は家宝の為、和田の郷社「高房神社」の本殿そのままの形に縮小した総けやき造りの社殿に所蔵されている。以上(東洋音楽学会会員:ペンネーム美濃晋平氏解説及び「和田の昔あれこれ」より抜粋 ③明海上人即身仏は日本全国に二十数体があり、そのいずれもがそれぞれの地方で厚い信仰を受けている。特に山形県の庄内には6体の即身仏があり、置賜には2体ある。ミイラを大別すると天然ミイラと人工ミイラとがあり、天然ミイラは偶然に乾燥によって出来たミイラで、常信庵のミイラはこれに属している。人工ミイラにはエジプトの即身仏を始め、日本の大部分の即身仏もこれに属し、明海上人の即身仏もこれである。日本での即身仏(人工ミイラ)は弥勒菩薩信仰からきており、弥勒菩薩がこの世に現れるのを待つために即身仏になろうとしたものと思われる。明海上人は小中沢、鈴木嘉左衛門(現松本家)の長男に生まれ、15歳で眼病を患い18歳で盲目となった。22歳から戒行を始め、常人の及ばない木食、禁塩、荒行を行い、26歳で湯殿山の行者と海号を授けられ、28歳で御室仁和寺から上人号を許され、33歳には亀齢山、明寿院の山号、院号を賜り、39歳で印可を授けられた。官職は納言同格の官位で乗輿を許された。紅色の衣を着て、銀色の袈裟をかけ水晶の数珠をつまぐり長柄の傘をさし、ご室殿直本寺となり、藩の行人派惣録所を命じられた。又、人々の病を祈祷し、火災を鎮め橋を直し、困窮者を助ける等、人々の為に尽くしたが病弱だった為44歳で亡くなった。明海上人は信仰心厚く、荒行をやった行者であった。又、個人所有の即身仏はここだけである。以上昭和56年発刊「三沢郷土史」より抜粋 ④多勢丸中家◎ヒストリー・上杉謙信が越後で力をつけたのは青苧のおかげだった。  ブランド化していた越後産青苧流通の支配・直江兼続が越後の青苧生産のノウハウをそっくり置賜に移植した。藩買上制→藩専売制。《青苧座は織豊政権による座の撤廃と上杉氏の移封によって力を失うことになる。そして皮肉なことに、越後の青苧が江戸時代の元禄年間に没落した最大の理由は、上杉氏の移封とともに青苧栽培技術が伝来された会津・米沢両藩産の青苧との競争に敗北した影響が大きかった。》(ウィキペディア「青苧座」)・鷹山公「最終製品化して付加価値を」→米沢織  安永5年1776、越後縮の織師を招く。青苧→麻絹交織→絹織物。・そもそもこの地域は古代より養蚕の盛んな土地だった。  米沢 白子神社(しろこじんじゃ)創建が和銅5年(712)。《神のお力によって桑の林に無数の蚕が生まれ、沢山の繭を作ったので、桑の林やあたりの菅(すげ)が雪に覆われたように真っ白になった。この不思議な出来事により、この地を白蚕村(しらこむら)と名付け、和銅5年(712)に社を造営して蚕菅社(こすげしゃ)と称し、白蚕明神(しらこみょうじん)とした。》(米織歴史散歩)  漆山 岩倉様信仰。貞観年中(859〜877)慈覚大師による開山。天保13年(1822) 社殿再建。現在はない。《岩倉神社は笹子平、焼ノ平の西北部の岩山の頂上に奥の院がある。祭神は厳島弁才天黄金富主家命といわれ、慈覚大師の開基と伝えられている。・・・この神社は養蚕安全守護神として強い信仰を受け、信者は西置賜郡、米沢市など置賜一円は勿論のこと、遠く福島、喜多方、東京方面からも参詣があった。また火伏の神としての信仰、商売繁昌の神としての信仰も厚く、米沢市内の織物業者らがよくお詣りに来た。/この神社の祭礼は旧四月一日で、参詣者はお宴銭と鶏卵を持ってゆく。岩倉様には白蛇が棲んでいるといわれており、蛇は岩倉様のお姿であると信じられているから卵を持ってゆくのだという。/祭り当日は神主がいて養蚕安全のお札やねずみ除けのお札を受けることができる。お札には蛇の絵が描かれており、そのお札を蚕室か神棚に納めておく。》(奥村幸雄『置賜の民俗』7.8合併号 昭和51年) ◎製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-2018/08/26昭和55年のこと、当時「地域主義」の第一人者清成忠男法政大教授への講演依頼から始まった「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」シンポジウム。そこで問題提起者のひとり石黒龍一郎さんの発言、《歴史を顧みますと、戦前この宮内地内は商工業の町といわれ、たしかに周囲10Km以上の範囲に商圏をもち、お得意様と町の商人の関係は親戚以上のものがありました。しかし、工業においては、製糸工場の経営者というのは、工業的感覚での経営というよりむしろ、商業的才覚での経営であったという事実があります。つまり、工場内の品質管理、品質の向上とか、生産工程の能率化という工業的なプロセスにそのエネルギーを使うよりは、何とか商売で当 てて、もうけてくれましょう、うまく相場の波にのりましょう、原料を安く買いましょうという方向へ精力を傾けてきました。その結果、純粋な工業的認識に乏しく、この地には工業技術の蓄積というものが、ごく一部を除いては無い、つまり技術的に成長しなかった。この風潮は今も尚、底流となって宮内の工業の中にあり、それが欠点のひとつではないかと考えられます。したがいまして、われわれ工業人は、戦前の商業主義的工業の範躊を脱し、より高度なものへの激しい挑戦の意欲をもった「工業する心」を確立してゆくことが第一の課題であります。商業主義的工業、準工業的姿勢ではどうしても装備は軽装になりがちであり、身軽でありがちです。われわれは「技術力」という有形の財産にも劣らない無形の財産を残すにはどうするか、深く考えるべきだと思われます。》「羽前エキストラ」の再認識でその改変を迫られた。この地域にはむしろ、高品質志向の伝統が昔から伝統としてあったのではないか、ということだ。そしてそう思った方がずっといい。石黒さんは、信州の製糸業が、諏訪のセイコーエプソンのような先端工業への転換を評価した。しかし、「女工哀史」とは無縁のこの地域には「ないものねだり」だったのではないか。ないものねだりするより、実際にあったいい面を評価して伸ばした方がいい。「羽前エキストラ」がそういう目を開かせてくれた。                             以上・昭和55年(1980)三商工会青年部共催シンポジウム「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」報告書作成。市内各所の写真を掲載、当時「置賜新聞」記者だった加藤茂氏と写真を撮って回る。そのとき初めて丸中邸へ。「必死で守ってきた」というトシさんの案内をうける。)                            平成28年(2016)登録有形文化財(建造物)に登録(文科省文化審議会)より ◎「羽前エキストラ」(大竹しのぶ主演の映画「野麦峠」の製糸工場ロケは高畠の長谷川製糸だった。野麦峠を地元の人は「野産み峠」と言ったという。飛騨から信州へ峠を超えて行った若い娘たち、飛騨へ戻るとき、ひとり列から抜けて笹薮に入り、そこで堕胎する娘が少なからずあったとか。しかし山形ではそうした「女工哀史」とは無縁であった。6割位は家からの通勤だった。給与は平均して年間200円。300〜400円もあった。1万倍すれば現在の金銭感覚におおよそ合うのではないか。優秀な工女3人も居ればたしかに蔵が建つ。それを保障したのが「羽前エキストラ」だった。) ・「製糸業」は「生死業」《製糸は、カイコの吐いた繭糸を一本並べに引き揃えて目的の太さと長さの糸を作る縄ないにも似た単純な加工工程を中心に構成されており、生糸販売価格の8割が原料繭代で占められる利益の薄い産業であった。そのうえ季節産物の繭を一括購入する大金の購繭資金の殆どは借入金で賄われた。一方出来た生糸の価格は支 払った経費に関係なくその時々の相場で決められた。このように製糸業は「生死業」と言われるように先の見えない不安定要素を含んだ産業であった。そのため多くの先輩の倒産を目にし、自らも辛酸を舐めてきた諏訪の製糸家は、犠牲を払ってよい生糸を作り高値で買ってもらうより、屑物を少なくし て確実に大目の生糸を手にする「糸歩増収」の道を選んだ。その結果、糸口の求まる最低の煮加減に抑えた硬めの繭を熱い湯に浮かべて煮不足を補いながら糸を繰る「浮き繰り法」の中でも糸歩を最も多くする「諏訪式製糸法」と言われ全国に普及する独特の方法を案出するのであった。》(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年)・置賜では最初から高品質生産を目指した。《糸は細いほど高級です。普通糸(21デニール)が繭7、8個から1本の糸を取り出すのに対して、羽前エキストラ(14デニール)は繭5個から1本です。それが可能になったのは、繭を十分煮た上で糸を取り出す沈繰法(普通は浮繰法)によってです。多勢亀五郎が群馬の古老からその秘伝を承けてこの地域に広めたといわれます。東置賜15社で組織した多勢組がその役割を担いました。二流品(横糸用)で大量生産の信州諏訪方式に対して品質優先(ヨーロッパ向け縦糸用)の山形方式、その成果が「羽前エキストラ」の名を世界に轟かせることになりました。》(世界に誇る優良生糸「羽前エキストラ」 『宮内よもやま歴史絵巻』より 平成16年)・時代の先端をゆく「山形方式」《明治の終わり日本生糸は量的には世界一となったが、品質は織物の「よこ糸」用の二流品であった。更なる輸出の増大には欧州糸が占有している「たて糸」分野への進出が必要であった。そのためには生糸を構成する繭糸本数(粒付け数)の管理を徹底して生糸の太さを揃え、繭を良く煮て生糸の抱合を良くする必要があっ た。軽め煮繭浮き繰りの諏訪式繰糸法ではその要望に応えるのは困難であった。政府は大正に入ると、「信州式浮き繰り法」から「たて糸」用生糸作りの、繭を良く煮熟し、繰られている繭だけが湯面に頭を出す、山形流の「沈繰(ちんそう)法」への技術転換を積極的に指導した。》(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年) ◎どのぐらい儲かったか?・大正4年(1915)の多勢吉郎次家(丸多製糸場)  年間推計売上額235,717円–生産費用133,340円=推計収益額102,378円   推定従業員数150人で計算すると、一人当たり売上1,571.4円。一人当たり収益682.5円   *この年の給与所得者年収333円、大工手間賃1.1円(1日)。消費者物価指数(都市部)1915/2015:1/3110。   *エヌデーソフト(株) 2017年度売上(単独)80.3億円 営業利益(単独)15.1億円(純利益10.8億円)従業員(単独)376名→一人当たり売上2,136万円。一人当たり収益402万円(株)かわでん    2018年度売上188億円 営業利益8億円 従業員564名(2014)→一人当たり売上3,333万円。一人当たり収益142万円          (「近代における優等糸生産の展開と製糸技術」伊田吉春より 平成25年) ◎二代目多勢亀五郎(多勢金上)と横山大観・名作 六曲一双「紅葉」図  多勢延太郎は、初代亀五郎の孫にあたり二代目亀五郎を襲名します。製糸業絶頂期、二代目亀五郎は画を愛し、横山大観、川端龍子、小杉放庵、鏑木清方といった当代きっての画家たちと交流を重ねました。  今では「大観作品の中でも最も絢爛豪華な屏風」として横山大観の代表作に数えられる六曲一双「紅葉」は、当時あまりの斬新さゆえに買い手がありませんでした。亀五郎はその絵を二万四千円で買い取ったのです。大観は大変感激して、お抱えの表具師と共に多勢家に飛んできました。昭和六年のことです。この屏風絵 はいま、島根県の足立美術館の看板作品として毎年秋に一般公開されています。・大観が画いた菊五郎の舞台衣装    「昭和の初め頃、羽前宮内に多勢亀五郎という紀文大尽のような男が出た。」  すぐれた審美眼と持ち前の侠気で名を成した米沢出身の美術商木村東介は『不忍界隈』(大西書店1978)の中で、亀五郎(延太郎)の桁外れの御大尽ぶりを紹介しています。  亀五郎寵愛の名妓との宴席に、全盛期の人気役者六代目尾上菊五郎を侍らせ、さらにその場に横山大観を呼びつけて六代目の舞台衣装の絵を画かせ、歌舞伎座東の枡席を買い切ってなじみの芸者、大観一統、得意客を並べ、花道でその衣装姿の六代目に見得を切らせたというのです。(注5) ・妹背の松をモチーフにした「相生の松」 ...

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置賜の三大と鼎(てい)

⓵三文殊(安倍・切戸・亀岡)◎亀岡文殊は、丹後(京都)の切戸の文殊、大和(奈良)の安倍の文殊とともに、日本三文殊の一つとして有名である。 大同2年(807年)に、東北地方布教のため、当地を訪れた徳一上人が、五台山に似た山容に心うたれ堂宇を建立したのが文殊堂の始めといわれている。 別当、大聖寺は真言宗に属し、皇室の勅願所として、国家安穏の祈祷を命ぜられ、また、徳川5代将軍綱吉以来家茂まで十代の間、ご朱印百石を賜わり、中納言格の待遇を受けた天下の名刹となっている。 文殊堂は文殊菩薩、すなわち釈遵の左にいて知恵を司る菩薩をまつり、中国では五台山がその浄土とされ、昔から、『三人よれば文殊の知恵』といわれるように、学問の神様として知られている。入学、入社試験等の合格祈願に訪れる人があとを絶たない。 境内には、老杉の大木が繁り、歴史の重みと厳かな雰囲気がただよう。大聖寺本坊には、大日如来を本尊としてまつり、ほかに桧の寄木造漆箔像の木造聖観世音菩薩立像(県指定)と阿弥陀、薬師像の2体がある。いずれも鎌倉時代の作とみられている。文殊尊に参詣し傍らの大黒天の前に行き両手で尊像を抱き、「軽くなり給え」と念ずれば、次第に軽くなり、「重くなり給え」と念ずれば重くなり、また、願望達成のときには軽く持ち上げられるという。 参道入口には仁王門があり、両脇には金剛力士像がある。参道途中には、十六羅漢像、芭蕉句碑、『南無阿弥陀仏』と刻された義民高梨利右エ門の念仏碑があり、薬師如来をまつる払川薬師堂のほか、文殊堂背面には大日如来、普賢菩薩、虚空蔵菩薩がまつられ、また一山の守護神、蔵王権現が鎮座している。 茶屋で一休みして名物の玉こんにゃくを食べたりするのも「文殊様」を訪れる楽しみの一つである。高畠町亀岡。 ◎安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院です。京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。入試合格祈願や学業成就、厄除け魔除け祈願を願う人々のお参りが多く見られます。御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」の格言で有名な文殊菩薩で、日本最大(7m)、鎌倉時代・1203年に仏師・快慶によって造立されました。獅子に乗り4人の脇侍を伴う、渡海文殊群像【5像全てが国宝】です。また、開運弁才天、安倍仲麻呂公、安倍晴明公の御尊像、方位災難除けの九曜星が安置される境内の金閣浮御堂は、霊宝館として内陣参拝でき、季節によって様々な寺宝を見ることもできます。うさぎ・限定朱印。奈良県桜井市阿部にある華厳宗の寺院。山号は安倍山。本尊は文殊菩薩。開基は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)とされる。奈良県桜井市。 ◎「切戸の文殊堂」として親しまれており、重要文化財の文殊菩薩を本尊として古くから出羽亀岡、大和桜井の文殊とともに日本三文殊のひとつに数えられている。「3人寄れば文殊の智恵」の言い伝えにあるように、智恵の文殊様として有名で、境内には学業成就、入試祈願の絵馬がびっしりと並んでいる。足利時代の多宝塔、重文の金鼓、歌人和泉式部の歌塚など重要な文化財も多く所蔵している。智恵を授かる「智恵の餅」。京都府宮津市。 ⓶三熊野(速玉大社・那智・宮内)宮内(山形県南陽市宮内) 東北の伊勢とも言われ、和歌山県の熊野三山、clip_image018長野県の熊野皇大神宮とともに日本三熊野の一つに数えられる熊野大社。縁結びで有名な山形県内有数のパワースポットです。参道の入口には大鳥居、参道には樹齢850年の大イチョウも今なお力強くそびえ立ちます。46段の石段をのぼると現れる、どっしりした風格のある拝殿と風格漂う本殿が。本殿裏側の「三羽のうさぎ」の彫刻をすべて見つけると願いが叶うとか。二羽目まではどこに隠されているか授与所で教えてくれるそう。三羽目は、人から聞いたり、場所を教えてしまうことでご利益がなくなってしまうとか!?三羽目は、自分の力だけで探してみましょう。探し疲れたら境内にあるicho cafeへ。メニューは地元の素材を使った逸品揃い。静かで優しい雰囲気のあるカフェで最高のティータイムを!月に一度、満月の夜に開催される縁結び祈願祭「月結び」。満月の光と三羽のうさぎに導かれてご縁が結ばれるように、特別な縁結び祈願が行われます。参列者限定のお守り「たまゆら守」は、ころんとした可愛らしい形で、色は月ごとに変わるそう。月結び限定の御朱印もあるので、御朱印帳を忘れずに!また、6月~9月の間月に1回開催される縁結び祈願祭「かなで」も開催。風鈴の音色に願いを込め縁結び祈願を行います。この期間中は、神事参加者の願いが込められた風鈴が飾られ、境内中に夏らしい涼やかな音色が奏でられます。 熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社として、 全国約4,000社余ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の篤い社です。 古来当社はご祭神「熊野夫須美大神」の御神徳により「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社であります。 速玉大社(和歌山県新宮市新宮1番地) 神代の頃に、神倉山の磐座であるゴトビキ岩に熊野速玉大神と熊野夫須美大神が降り立ち、そこで祀られることとなった。熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる[4]。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされている。しかし、社伝によると景行天皇58年に現在地に遷座し、速玉之男神の名から社名をとったという。もともと祀られていた所である神倉山は神倉神社となり、また元宮と呼ばれ、当社は新宮と呼ばれる。初めは二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀っていたが、平安時代の初めには現在のように十二の社殿が建てられ、神仏習合も進んで熊野十二所権現と呼ばれ、やがて式内社(大)に列せられた。また、穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。1871年(明治4年)、熊野速玉神社として県社に列格するが、1883年(明治16年)、打ち上げ花火が原因で社殿が全焼してしまった。1915年(大正4年)、官幣大社に昇格する。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。1967年(昭和42年)に社殿が再建された。2004年(平成16年)7月1日、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。 ③三左衛門(本間・柏倉・海老名)<本間家> 本間家は、当初相模国愛甲郡本間村にいたため、本間氏を称したとされる。鎌倉時代、佐渡国守護となった大佛氏(執権北条氏の支流)の守護代として佐渡に入った本間能久より始まる。雑太城(さわだじょう)を本拠として勢力を伸ばし、いくつかの分家に分かれた。永正6年(1509年)、永正の乱では関東管領上杉顕定に敗れた越後守護代の長尾為景と守護上杉定実を匿い、翌永正7年(1510年)には羽茂本間家・雑太本間家が為景に援軍を出し寺泊から越後へ上陸、長森原の戦いで顕定を敗死させた。その功により為景から越後国に領地を与えられている。戦国時代になると分家の河原田本間家、羽茂本間家の力が強まり度々争うようになり、惣領家の雑太本間家は没落する。為景の子長尾景虎(上杉謙信)の代に河原田、羽茂両家の争いはいったん収まるものの、天正6年(1578年)の謙信の死後に再燃する。後に上杉景勝の代になると、会津の蘆名氏、出羽国の最上義光と結び反・上杉の姿勢を取るようになる。豊臣秀吉から許しを得た景勝は、天正17年(1589年)、佐渡へ侵攻し本間氏を討伐。抵抗する佐渡側の本間氏と決別して上杉側に就いた一部の本間氏は、討伐後に佐渡を離れて上杉家と共に越後、会津、米沢へと移転した。佐渡中興(なかおく)の本間四郎左エ門泰秀が雑太の本間信濃守憲泰の娘婿となり、雑太本間家の家督を継承した。泰秀の嗣子四郎左エ門大吉は佐渡奉行所地役人に召出され、佐渡相川に移住した。大吉には宣儀、平秀、蕃儀の三子があり、平秀が佐渡奉行所地役人を継承し、6代後の今井彦一まで継続して佐渡奉行所地役人を務めている。宣儀(権左エ門)は中興本間家を継ぎ、2012年(平成24年)現在、宣儀から数えて12代目となる子孫が新潟県佐渡市中興(旧・金井町中興)に在住している。宣儀と平秀の子孫の墓は、いずれも中興本間家の菩提寺である興源院(佐渡市中興)にある。佐渡本間氏の嫡流である雑太家の流れを汲む中興本間家は350年以上の時を経て、現在に続いている。第二次世界大戦後のGHQによる農地改革の実施に伴い、1750ヘクタールあった農地はただ同然(買収価格は1反(1,000平方メートル弱)あたり水田760円、畑450円。戦後のインフレ(1945年から1949年にかけて卸売物価ベースで70倍)にもかかわらず据え置きされた)で売り渡され、本間家には4ヘクタールのみが残存した。1990年(平成2年)、本間家の商事部門等であった本間物産は倒産。その後、本間物産はカウボーイ傘下での再建を経て、秋田県仙北市に本社を置く伏見屋からの買収によって、子会社化された。 なお、不動産関連は本立信成として今日も現存する。本間ゴルフ創業者は、酒田本間氏庶流にあたる。 <柏倉家> 当主は代々「九左衛門」と名乗り、10家以上の分家を創設しました。村山地方を代表する農家・地主であり、自作農も手掛けたほか、江戸時代には同地方において最多級の紅花生産者でもありました。明治時代以降は銀行経営にも携わり、その後は地域の経済発展や社会貢献に尽力しました。周辺には現在でも分家の屋敷群が建ち並び、各家の敷地を囲む黒塀がひとつのまちなみを形成しています。また、旧柏倉家住宅の背後には、三嶋山と呼ばれる豊かな里山があります。そこから湧き出る清水は敷地内を巡り、門前の畑まで連綿と流れ続いています。ここでは、自然と一体化した豊かな里山の生活の一端を感じ取ることができます。旧柏倉家住宅は近世の上層農家の形式を継承した大規模住宅です。建物約360坪、敷地は約2,300坪と広大な屋敷に庭園を築き、主屋のほかに4つの蔵(仏蔵・内蔵・前蔵・北蔵)と長屋門や籾堂などの建物が立ち並びます。 現在の主屋は前身の建物が天明3年(1783年)に建てられ、明治31年(1898年)に大改修を経た姿です。近代の発展を語る主屋の座敷や銘木による精緻な内装や、水運盛な頃に北前船で運ばれてきたと伝えられる京仏壇が据えられた荘厳な仏蔵、春慶塗で華やかに彩る前蔵の上質な蔵座敷など、見ごたえのある建築技術や高度な意匠が特徴です。これらの価値が令和元年に山形県村山地方における屋敷構えを特徴とした『明治期の南東北における上質な農家建築』として高く評価され、国指定の重要文化財となりました。 <海老名家(岩城屋)> 「先祖の遺産は消費しない」を家訓とする岩城屋は江戸時代後半から小間物や雑貨、明治の頃から金融宅地業に切り替えて更に大きく飛躍しました。海老名家六代目当主久松は京都との交流を盛んにして家運中興の業績をあげ、この間、多くの文人墨客と交わりました。幕末から明治にかけては頼山陽や離れ座敷の茶席に「団雪庵」と名付けた支峯などが訪れています。長井の店屋造りの典型的な建物で店蔵は江戸時代のもので店と母屋は大正6年の中道大火で類焼したが、岩城屋の伝統を守り類焼前とまったく同じ形に新築しました。入口の格子戸と岩城屋の名の入った小間屋門の「のれん」、店の格子窓とその上のキリヨケと呼ばれる丸く反った小屋根、雨風から漆喰のアオリ戸や窓を守る為、店蔵の窓につけた出窓風の「ワサヤ」など、雪国の風土と長井が商業都市として栄えた頃の面影を残しています。 ④東北三大桜(三春・久保・和田)・三春(滝桜) 福島県田村郡三春町大字滝字桜久保に所在する推定樹齢1000年超の国の天然記念物の枝垂れ性のサクラの巨木。三春の滝桜、また単に滝桜とも呼ばれる。品種はエドヒガン系の栽培品種のベニシダレ(紅枝垂桜)。 ・伊佐沢(お玉桜/エドヒガン桜) 田村麻呂は、この地を訪れた折に豪族である久保家の家に宿泊し娘のお玉と結ばれたが、奥州の征討が済むと軍を収めて帰京してしまった。お玉は恋慕の情に耐えきれず、病にかかり、亡くなってしまう。再び東北に来た田村麻呂がそれを知り、哀情から摂津国摩耶山の桜を取り寄せ、お玉の墓に手植えして墓標にしたという。起源については、桜の苗を送ったという説や、地元の豪族が妻(お玉)と子の死を悼み手植えしたものという説もある。いずれも「お玉」という女性が登場することから「お玉桜」の名でも親しまれている。 ・和田(原の五郎右衛門の枝垂れ桜) 和田字原に、五郎右衛門とゆう名門の豪農がある。この枝垂れ桜は五郎右衛門の庭にある。初代五郎右衛門は大阪から婿入りした人で、その時持参した鉢植えの桜を大地に植栽したものと聞きます。推定約500年、根回り5メートル、樹高は明治36年台風で折損したが現在6メートル位と推定され、太い枝が四方に広がり、その姿は優雅である。又、上杉藩主が毎年のごとく観桜会を催したと云われています。「和田の昔あれこれ」より

イザベラバードが日本にきた頃の日本人とその生活 伊達三日月街道活性化協議会

イザベラバードが日本にきた頃の日本人とその生活

鋭い観察力で日本の実相を記録した希代の旅行家 イザベラ・バードはイギリスの女性旅行家。明治時代の日本を訪れ、その旅行記をまとめた「日本奥地紀行」の著作で有名です。彼女は日本以外にも、ハワイ、ロッキー山脈、マレー半島、ペルシャ、クルディスタン、朝鮮、中国に関する旅行記を残しています。その中でも日本は多く訪れていており、都合5回ほど来日しました。 旅の目的は、東京から北海道(蝦夷地)まで、明治維新当時(明治11年6月~9月)の日本の地方の住居、服装、風俗等の生活文化や自然を細かく書き留め、近代以前の日本の情勢を旅を通して記録に残すこととキリスト教普及を念頭に置き、その可能性を探る為に宣教師のいる場所にも立ち寄るよう計画をされていた。旅はハリー・パークスが英国公使としての立場から企画立案した。バードは彼の依頼に真摯(しんし)に応え、使命感を糧に完遂した。日本での旅の記録は、全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』としてまとめられた。同書はこれまで言われていたような旅先から妹へ送った私信を集めたものでなく、半ば公的な報告書だった。 ・距離は、北海道の旅が、東京から平取まで陸路で約1400キロ、函館―横浜間が海路だった復路を含めると約2750キロ。関西・伊勢神宮の旅は、陸路が約580キロで、横浜―神戸間の船旅を含めると約1850キロとなる。二つの旅を合わせると全行程で4500キロを優に超えていた。パークスの尽力で地域的・時間的制約のない特別の内地旅行免状を取得して初めて成し得た旅だった。 また、旅は行き当たりばったりのものではなく、用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていた。例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実相を明らかにするためだった。旅で用いたブラントン日本図もパークスの命によって彼女のために作成されたものだった。解説:地理学者 金坂清則 <置賜地方記録編> ①小松手の子から10㎞歩いて小松に至った。ここは素晴らしい場所に位置する。人口3000人の町は綿製品や絹と酒の取引が盛んである。宿屋に着いた時にはすでに多くの群衆が私の方に押し掛けてきた。群衆が裏の屋根に上って夜までじっと座っていた。私が前を通った家はほとんどの家で糸を操る仕事をしていた。 ②吉田・洲島・黒川・高山・高橋どの村にも幟が二本立っていた。半数ほどの村が祭りを祝っているようようだった。女の子はみなこってりと化粧をしてもらっていた。 ③津久茂それまでの道幅1.2mから7.5mの道に遭遇し両側に側溝があり、道沿いに電信柱が続く突然の新世界とその下で大人の男が日よけの笠に団扇(うちわ)だけの身なりでいたり、本と石板を手に下校途中の子供たちは学んだことを諳(そら)んじながら歩いているその不調和は私には衝撃だった。 ④赤湯硫黄泉の温泉町の浴場はいずれも混浴の人で溢れ、大声が響き渡っていた。そして入った宿屋は三味線がかき鳴らされたり、琴がキーキーとつま弾かれる部屋でほとんど塞がっており、その騒音にはとても我慢できなかった。 明治期の日本に欧米人が驚いた「貧しくても貧困ではなく、前向きな庶民と無防備すぎる家」 ①1856(安政3)年に下田にやってきた初代アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス(1804-1878年)は、このようなことを記している。  「この土地(筆者注:下田のこと)は貧しく、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精いっぱいで、装飾的なものに目をむける余裕がないからである。それでも人々は楽しく暮しており、食べたいだけ食べ、着物にも困ってはいない。それに、家屋は清潔で、日当りもよくて気持がよい。世界の如何なる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」―ハリス著、坂田精一訳『日本滞在記(中)』(岩波文庫)、103ページ ②江戸時代が終わり、明治時代も終盤に差し掛かった1909(明治42)年、ロシア国籍のタタール人、アブデュルレシト・イブラヒム(1857-1944年)は日本を訪れた。その彼は、こう書き残している。 「日本の治安は完璧である。町であろうと村であろうと、盗難などの発生はめったにない。私はよく野山を一人で歩きまわった。途中で疲れきって眠りこむこともよくあった。ときには手元にいくばくかの荷物もあった。しかし、一度たりとも盗まれはしなかった。滞在していた宿の主人を観察していても、門に閂(かんぬき)をかけるような習慣はまったくないようだった。たとえそうしたとしても、あんな壁では一蹴りされればたちまち倒されてしまっただろう」―イブラヒム著、小松久夫他訳『ジャポンヤ』(第三書館)、209ページ ③イザベラ・バードが東北を旅行し、宿泊した宿で女中さんにとても良くしてもらったため、翌朝の出発時に心付けとしてお金を包んで渡そうとしました。ところが女中さんはこれを受け取らず、「私は女中として自分のすべきことをしただけのことですから、お金をいただくわけにいきません」と言うのです。日本にはチップという制度がないので受け取らなかっただけのことかもしれませんが、「仕事を誠心誠意、心を込めてやる」というのが日本人です。お金が先にあって仕事をしているわけではない、ということがこの女中さんの態度からわかります。また、この女中さんのエピソードは、日本人の「自己の確立の高さ」も物語っています。 ④エドワード・S・モースという、1877年に大森貝塚を発見したことで知られるアメリカの動物学者がいます。発見は発掘調査をともない、日本の考古学の先鞭となりましたが、ダーウィンの進化論を紹介して生物学を定着させた人物としても知られています。モースは日本を気に入り、3度にわたって来日しています。研究の傍ら、関東だけでなく、北海道、関西、九州と日本中の風土を見て回りました。モースは日本での体験を1917年に、『Japan Day by Day(邦題/日本その日その日)』という著書にまとめています。モースが来日中、最も感心したことは、「日本人は他人のものは盗まない。日本人はしてはいけないことはしない」ということでした。「私は襖を開けたままにして出かけるが、召使いやその子供たちは、私の部屋に出入りこそするけれど、お金がなくなったことがない」と、たいへん驚いています。 また、モースがある女性医師と東京の街を人力車で移動をしている時のこと。道路の傍らで盥たらいに湯を張って裸で行水をしている若い女性に出くわしました。モースは「オイオイ、あんなところで行水をしているぞ」と言って思わず見入ってしまいましたが、彼と女性医師を乗せた人力車を引いている車夫はまったくそちらを見なかったのです。モースは「我が国では、特に車夫のような肉体労働に就いている男はたしなみがなく、裸の女とくればまずはじろじろと見てしまう。ところが日本人の若い車夫は一切、そんなことはしなかった」として、これもまた大いに感心しています。 「幕末・明治の日本は外国人にどう見られていたか」ニッポン再発見倶楽部 著、三笠書房 発行 日本人にとって当たり前のことは、敢えて書き残さないもの。当時の常識はどんなものだったのか。 むしろ、日本を客観的視点で観察した記録は、外国人の書き残したものの方がよくわかることがあります。 この本は、江戸時代末期(幕末)~明治時代に日本を訪れた外国人達が書き残した文章から、分野別に抜粋した内容です。 私が好きな人物…ハインリッヒ・シュリーマンをはじめとして、エドワード・S・モース、イザベラ・バード、ブルーノ・タウト、ラフカディオ・ハーン、エドウィン・フォン・ベルツの名前もありました。 欧米と日本の文化の違いや、同じ日本でも現代と当時の文化の意外な違いがわかり、興味深く読みました。  育児文化は150年前も今もあまり変わらないのですねえ。 医学に関しては分析的な西洋医学からみると、経験的・帰納的東洋医学は「遅れた医術」に見えたようです。しかし現在、漢方薬ブームで世界中からの需要があり生薬価格が高騰している状況を考えると、どちらが正しいとは決めつけられないと思います。 □ 江戸の上下水道 江戸の地下には「木樋」(もくひ)と呼ばれる配水管が巡らされ、各町に設置された井戸(湧水の井戸ではない)まで水を運んだ。この上水システムにより、江戸の約6割の人々が水道を利用することができた。 下水はといえば、当時の人々は屎尿をすべて肥料にしていたため、わずかな生活水を流す溝程度のものさえあれば十分だった。屎尿をそのまま放流し、川が汚水で汚れていた西洋諸国とは大違いだ。 しかし明治維新後、西洋化が進むと汚水が放流されはじめ、飲料水として使用できないどころか、衛生状態はどんどん悪化してしまう。 ようやくヨーロッパ式の下水道が建設されたのは1884年(明治17)年のこと。日本は水道設備の整備を進め、再び世界有数の水道先進国となった。 □ 江戸時代に花開いた園芸文化 江戸時代は園芸文化が大きく発展した時代だった。植木鉢が普及し、庭がなくても草花を育てることが可能になったこともあり、将軍家などの上流階級から庶民に至るまで広く園芸が広がり、品種改良熱が高まった。 □ 世界屈指の治安のよさ 「こんなに泥棒が少ない国は珍しい。その理由は法律が厳格に施行されているためで、泥棒が捕まると命は決して容赦されない。」(フランシスコ・ザビエル) 江戸時代は泥棒をすると容赦なく死刑にされた。※ 江戸時代の窃盗罪  強盗殺人:市中引き回しのうえ獄門(公開死刑後さらし首) 追いはぎ:獄門または死罪 強盗傷害:死罪 空き巣:むち打ちの後、入れ墨を入れられる □ 江戸時代の入浴習慣 上級武士の家には内風呂があり、庶民は銭湯を憩いの場として楽しんだ。風呂の種類も多彩;・戸棚風呂:蒸し風呂の一種・据え風呂:現在のようにお湯に肩までつかる・鉄砲風呂:おけに鉄の筒を入れて下で火を炊く・五右衛門風呂:桶の底に平釜をつけて湯を沸かす 日本人の風呂好きは、幕末明治に渡来した西洋人達を大いに驚かせた。当時のヨーロッパでは貴族階級であっても風呂に入るのは数ヶ月に一度くらいの頻度であり、庶民の間で風呂に入ることが習慣化したのは第一次世界大戦以降のことだった。 □ 日本人の識字率は当時世界ナンバーワン 幕末の武士階級の識字率は100%、町人・農民ら庶民層も4割ほど読み書きができ、中でも江戸の子どもの識字率は7~8割と高く、中心街に限れば9割に達した。 江戸時代の日本では寺子屋が普及していたためである。 □ 時代劇でも採用されない化粧法「お歯黒」 お歯黒とは、鉄漿(かね)という液体を使い、歯を真っ黒に染める化粧法。鉄漿は小間物屋などで売っているわけではなく、女性が自分の家で手作りする。 まず壺に古釘などの鉄を入れ、米屑や水と混ぜて数日間おいて錆びさせる。このとき出てくる汁が鉄漿である。ただし、黒手はなく往昔色をしているので、前段階として「五倍子粉」(ふしこ)を歯に塗らなければならない。五倍子粉とは、五倍子虫(ふしむし)が木の幹や枝に作った瘤上の塊を粉にしたもので、タンニンを多く含み、染色やインク製造などにも用いられる。この五倍子粉を塗ってから、刷毛で何度も鉄漿を塗ることでようやく歯は真っ黒になる。鉄漿は強い刺激臭がするし、皮膚にも悪いから、歯茎や唇につけないよう細心の注意を払う必要がある。 奈良時代頃から上流婦人の間で行われ、やがて庶民にも普及した。江戸時代以降はお歯黒が気根であることを示したり、決まった贔屓客(=パトロン)がいる芸者のしるしと見なされるようにもなった。 西洋人には不評で「恐ろしい習慣」(ペリー)とまで言い切っている。 当時は顔を真っ白に塗りたくる厚化粧がふつうであり、西洋人は「人形のよう」とか「死人のよう」と評した。 現代の化粧は、自分の自然な表情や魅力を引き出すために行うが、当時の化粧は喜怒哀楽を押し隠すためのものだったのだ。感情を露わにするのは不作法ではしたないことと考えられており、化粧をして表情を読み取られないようにするのが礼儀とされていた。 □ 武士のちょんまげはサラリーマンのネクタイ ちょんまげは、昔の男性にとっては会社員のネクタイのようなものであり、一人前の成人男性として社会に参加していることの証明だった。年を取って髪の毛が薄くなり、ちょんまげが結いにくくなると、昔の男性は隠居か出家を考えた。 明治時代になるとちょんまげは姿を消していく。1871(明治4)年、明治政府は「断髪抜刀勝手令」を出した。 □ 名誉・礼節を重んじる国民性は「武士道」由来 日本人が名誉にこだわるようになった理由は、武家社会で武士道の精神が育まれたからである。新渡戸稲造によると、武士の子は幼児期から名誉を教え込まれ、「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」という言葉で振る舞いを矯正されていた。 その究極の行いが切腹であり、名誉を守るため、または傷つけられた名誉を回復させるためにはむず~腹を切って死ぬしかないと考えられていた。古来、腹部には人間の霊魂が宿っていると信じられており、腹を切ることが武士道を貫く方法とされてきたからだ。「日本人は誇り高く自尊心の強い性格で、侮辱に対して敏感、・・・この鋭敏すぎるほどの道義心が復讐心に結びついて、腹切りという名で知られる異常なまでの自己犠牲をなさしめるのである」(スエンソン)。 ★ 切腹の作法★1.切腹刀を左手で取りあげ、刀の下から右手を添えて、目の高さに持ってくる。2.切腹刀を右手に持ち替えたら、切っ先を左脇腹に突き立て、右腹の方に切り裂く。3.切腹刀を一旦抜き、刀をみぞおちに突き立て、へその下まで切る。その後、介錯人が一気に首を切り落とす。※ 江戸時代は腹を切らず、すぐに首を切り落とした。...

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置賜青苧と最上紅花

米沢藩下の置賜地方は江戸末期からの養蚕業の発達以前には青苧・蝋が特産品であり、山形を中心とする村山地方は青苧・紅花が二大特産物であった。青苧はそれぞれ米沢苧・最上苧と呼ばれ、併せて羽州苧とも称されていた。村山地方の紅花は最上紅花と称されて阿波の藍と並んで二大染料として、全国的名声を博したものであった。明治以後の化学染料使用により衰退していった。青苧・紅花ともに、この地方の農民のもっとも主要な商品作物として農民経済に重要な位置を占め、停滞的孤立的なこの地方経済を全国的市場に連結する媒介の役割を果たしたものである。置賜地方は江戸全期を通じて米沢藩のうるぎない支配下にあって強固な領土的統制のもとにあり、村山地方は積極的な領主の統制支配をなし得ない政治的状況下にあった。従って全国的市場への参加の仕方も異なっており、地方経済の発展にも大きな相違が生じたようです。 苧麻(からむし)が古代以来、ことに近世の木綿栽培の普及以前においては最も重要な民衆衣料であったことは今更いうまでもない。江戸時代になると木綿が大衆衣料として普及するにつれ青苧は一部の自給的な庶民衣料を除いては武家・町人の礼服用、夏の衣料あるいは蚊帳等の特殊なものにとどまるがまだその需要は大きかった。それらの苧布の地方特産品として名をはせたものに奈良晒(さらし)、越後縮(ちじみ)がある。各地方にも苧布・蚊帳等の特産品があって農民経済に重要な地位を占めており主要部分は上州・会津・羽州であり、特に羽州苧が重要な部分を占めている。江戸時代、米沢藩が最も力を注いで生産の増加と統制を図ったものは青苧でした。置賜地方における青苧産地は最上川上流両岸の山麓地帯、すなわち下長井郡東通・西通が主で、他は北郷にわずかある程度である。当時すでに青苧が農民経済にとって貨幣経済に対応するための商品作物として重要であることを支配者側も認めていた。 この青苧を上方市場に一手販売したのが特権御用商人の西村久左衛門である。西村家は元々、近江の住人で信長の家臣で、その後蒲生氏郷に仕え会津、米沢に住した。上杉景勝の入部を迎えて先方衆として再び奉公し、上方との連絡をもつところから米沢藩の御用達を勤めることとなった。 西村家は京の東洞院四条上ル町に店を構えて、青苧の他に蝋、蝋燭、紅花等米沢藩内の国産品を引き受けて繁昌した。しかし元禄頃から米穀輸送のため最上川上流の販路開発工事に莫大な投資をして以来すっかり家産を傾け、その後身上を潰してしまった。村山地方における青苧の生産地帯は白鷹山塊周辺諸村と出羽丘陵東麓の宮宿・左沢・七軒・大谷・谷地方面が主であった。元禄5年以降は山形領からの青苧・紅花の出荷高をみると青苧は紅花のほぼ二倍になっています。そして、米沢藩と違い各藩領に細分化され、左沢藩を除いて青苧について専売制はみられず有力豪商がその商圏を支配し大規模な集荷販売網を確立していた。 紅花は古くから藍・茜・紫根・刈安などとともに染料植物として最も代表的なものであった。品質と数量において全国第一位を占め、産地は現在の山形市周辺すなわち村山地方である。明治8年は紅花が化学染料に押されて衰退する直前ですが、その頃においても山形地方に入る収益年額の三分の一は未だ紅花であった。そして、元禄期から盛んになり寛政~文化以降最盛期でしたが、明治10年以後は急激に衰退していきました。最上紅花はほとんど京送りで大石田から最上川を下り出荷された。明治12年になると出荷品は第一位は米で菜種・藍・青苧・煙草がこれに続き、紅花は僅かに痕跡をとどめるばかりになっていた。紅花産地は南村山郡北部・東村山郡・北村山郡南部・西村山郡東部で村山盆地の中心部一帯である。そして、紅花荷主の豪商が集中し、集荷の中心をなしたのが山形をはじめ谷地・天童・楯岡・寒河江等の町場であった。紅花は青苧よりも耕作に手数や技術を必要としただけ値段で高価であり、それだけ農村経済にとっての比重は大きかった。 羽州村山地方の第一の特産品である紅花に対して領主経済のための吸収策として、ことに経済的後進地帯に特徴的な政策である強力な藩専売制が実施されなかったのは、その中心部を押える山形藩は領主交替がはげしく、商品生産を確実に掌握する政策を展開するまでのゆとりと力を持ち得なかったことがその一因とみられる。しかし、山形水野藩にして実施しえなかった紅花専売を僅か二万三千石の天童織田藩が実施に踏み切ったことは注目すべき唯一の例である。村山地方は小藩分立による藩権力の弱体化、藩領の分散性による統制の困難等の理由に加えて既に紅花の流通機構は確立していた。なお、幕末といゆ幕藩体制の崩壊期の時代的背景も考慮すべき条件ではある。 以上「青苧と最上紅花」伊豆田忠悦著1979年より抜粋

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伊達氏と米沢・東置賜

◎伊達氏と米沢 初代仙台藩主伊達政宗公は今の山形県米沢市舘山地区にある舘山城で誕生し二十五歳まで過ごしました。 伊達氏は元々、常陸国(茨城県)の豪族でしたが姻戚関係にある源頼朝による奥州合戦(奥州藤原氏討伐)に参戦しその恩賞により現在の福島県伊達市に本拠地を定めました。 室町時代、陸奥の国の守護となり、その後、今の山形県東南置賜の高畠町に進攻し長井氏を滅ぼして米沢一体も統治しました。舘山城は祖父晴宗の時に増築され現在の舘山地区を中心に城下として整備が開始されました。 戦国時代の後半、伊達政宗は舘山城を本拠地として南奥州(福島県の大部分と山形県の置賜地方と宮城県の南半分)を支配しましたが豊臣秀吉の奥州仕置きにより伊達政宗は現在の宮城県大崎市の岩出山に移封され、関ケ原の戦い後、徳川家康の許しを得て、今の仙台に築城し仙台城を築き、仙台藩祖となりました。。 ◎伊達氏と広幡・六郷 中世、置賜地方を治めた伊達氏は成島八幡宮の社殿の増築や修築を行い、六郷の長善寺には伊達家の紋章の菊が彫刻され須弥壇が安置され、そして、今も両地区には伊達時代の城郭跡が点在している。 広幡地区 広幡の地名は成島、小山田、上小菅、下小菅の4カ村が成島八幡神社の前に広がる里であることから八幡の冠字である「広幡」をとって名付けられました。米沢焼や成島・下小菅人形、棟札、古墳群等歴史遺産も多く、又、餅文化も息づき秋の七草の一つであり寒さに強い桔梗(ききょう)の里と呼ばれる風光明媚(ふうこうめいび)な地域です。 六郷地区 六つの大字(西藤泉・轟・一漆・西江股・桐原・長橋)が一つになった六郷は農村文化が受け継がれ今も行屋(ぎょうや)群や湧水地群や巨木を守り豊饒(ほうじょう)の里と呼ばれ、土地が肥え作物が良く実る緑多い地域です。 ◎伊達氏と小松 江戸時代、置賜の物流の拠点として栄え今もその伝統を引き継ぐ小松地区の繁栄の基盤は伊達時代に造られました。譜代家臣の原田氏を配し越後街道や街並みや田圃の整備、河川改修そして神社仏閣の庇護等、領内の経営にあたりました。重臣となる片倉小十郎景綱の生誕の地片倉館や越後高田城普請の帰りに伊達政宗が宿泊した常念寺がある小松地区は深く伊達の精神が息づく街です。 ◎伊達氏と高畠地区 高畠地区は置賜地方では早くから拓けた地域で12世紀に高畠も含めた置賜地方は大江広元氏が治めていました。14世紀になり伊達宗遠(8代)が長井氏(大江氏)を駆逐し、以来200年間伊達氏の時代が続きました。その間、伊達稙宗(14代)が高畑城を本拠地として置賜地方を治め伊達氏の置賜地方支配を盤石なものにしました。又、江戸時代になり高畠地区は上杉領や幕府直轄領を繰り返しました。

伊達氏と置賜 伊達三日月街道活性化協議会

伊達氏と置賜

置賜地方における伊達氏の統治の象徴的な史跡4箇所をご紹介します。 ⓵舘山城 大樽川と小樽川の合流する舌状丘陵に位置する。丘陵の先端部にある城祉全体は良好に保存されている。城は、舌状丘陵を利用して東西300メートルの範囲に構築されている。南側を大樽川、北側を小樽川の自然要害を背景に、さらに急勾配を図る目的で山肌を30メートルほど削平して人口斜面を形成している。全体を土塁と堀切、竪堀で3箇所の曲輪を区画し、東側は南の山麓から大手口をもつ曲輪、竪堀をへてもうひとつの曲輪がある。西面を10~20メートル、高さ6メートルの大規模な土塁と北側に3メートル前後の小土塁と帯曲輪で区画された南北70メートル、東西60メートルの不整方形の空間は館山城の主郭(本丸)と考えられる。北西の隅には北の土塁が南に折れて虎口を開き、堀底道へ続く大規模な堀切が出現する。堀切は大型土塁の上端から対岸の端までの最大幅は28メートルを測り、深さも20メートルをなしている。堀切を越えるとまた別な曲輪の空間に入り、南に大規模な物見台が位置する。この曲輪は最後の竪堀と物見台の西側に堀切を有し、物見台と曲輪の接点と竪堀一部に土橋による虎口が開口する。性山公治家記録によれば、元亀元年(1570)伊達輝宗の将・中野宗時、牧野久仲親子が謀反を起こし、それが露見するや自分の邸宅に火を放ち城下はすべて廃墟に帰した。但し、御城は「山上にありて恙(つつが)なし」とある。また、仙台史の中では伊達輝宗の代に高畠城から米沢城に拠点を移すとの記述があり、これを館山城としている。すなわち、「代十五世晴宗将君、羽州米沢城(松岬城より西三十余町館山と称する地)に移る。」とある。一方、治家記録には輝宗が天正12年に隠居し、政宗に家督を譲り、己は館山に隠居所を造り普請の出来上がるまで家臣・鮎貝宗重宅に起居し、翌天正13年に移住したとある。さらに天正15年正月11日には政宗が自ら館山に赴いて地取、2月7日再び同地に赴いて縄張りを為し築城計画を開始した旨の記述がある。晴宗が高畠城から米沢城に拠点を移すのが館山城で、以後政宗まで三代にわたり居城としたという。輝宗の日記の中で、元亀年に中野、牧野親子謀反の記述に関しても山上とは館山城のことであり、現在の米沢城ではありえないとする。 又、政宗の縄張りは老朽化した館山城を改善するものだと言う。そして、館山の町全体が城郭地帯で、一ノ坂の東側に残る並松土堤を城の外郭とし、二ノ坂を城の二の丸、三ノ坂を本丸跡とする説もある。現在は並松土堤は北側にほんの一部しか残存していないが、数十年前までは土塁と堀跡が存在していた。一方、館山町4丁目の大樽川に近い畑地内にも幅4メートル、高さ2メートル強の石垣が残っているが城に伴うものかは判然としない。 置賜全体で確認された城館跡を分析した結果では、三沢館型山城に類似し、伊達輝宗期に盛行した形態である。だが、三沢型の山城とは曲輪の規模では比較にならない絶大の広さを持つ。主郭の面積だけでも4,000平米(1,300坪)を下らない。米沢盆地最大の山城である。山城の南側には山城への大手門が存在している、その東側の大樽川と小樽川が合流する広大な山麓一帯も曲輪と考えられ、小樽川に接した面に方郭に区画された一町四方の土塁が現存し所謂「伊達輝宗の隠居跡」との可能性が指摘される         情報提供:山形県教育委員会より抜粋 ※舘山城が本城である歴史的3資料 A.栽松院殿四百回忌供養法要会記念小誌より 笑窪姫はかくして舘山城に輿入れし晴宗の正室となった。今の米沢西部の大樽川添い小野川温泉に至る途中の標高560米の山上の城であった。 B.性山公治家記録巻二(元亀元年~天正二年)より この放火で米沢市街は全焼したが城は山上(さんじょう)にあったので無事であった。 C.夏刈村方角道法 御本城は舘山城と承(うけたまわ)り申し候。 上記の通り一次資料に明記されているように伊達家15代晴宗から16代輝宗17代政宗までの本城は舘山城であったことは明白である。 ⓶成島八幡宮 創建は奈良時代の宝亀8年頃(777)光仁天皇の時代で、それから30年ほど過ぎた大同2年(807)征夷大将軍坂上田村麻呂が東北の賊を征伐する折、戦勝を祈って社殿を造営したとも伝えられています。 その後、鎌倉時代になって大江長井時代、伊達時代と代々の藩主に崇拝庇護され社殿の改築や修築がされ、米沢では最も古い由緒のある神社です。その頃には置賜郡に成島荘・屋代荘・北条荘と3つの荘園が出来、成島荘の鎮守として祀られてもおります。 ③片倉館 伊達政宗と共に活躍した片倉小十郎景綱の祖父、片倉伊豆守景時(小松伊豆)が天正年間伊達晴宗に仕え、小松郷に采地を賜りこの地に居館を構えたのが始まりである。片倉伊豆守景時には2人の息子があり、伊達輝宗の時代に長男片倉景親は長井小桜館を賜ったが、入道して意休斎と号した。次男片倉景重は片倉館を継いで小十郎景綱の父となった。景重は米沢八幡の神職と伝えられるが、米沢八幡は存在しておらず、この地に祀られている八幡神社を指していると考えられる。  小十郎は、はじめ親族の藤田家に養子に出されたが、後に子が生まれたため藤田家を出て、伊達輝宗によって政宗の小姓に取り立てられたと伝えられる。(伊達世臣家譜による)  当時の資料や歴史的人物的背景から、ここ片倉舘が片倉小十郎景綱の生誕の地であると考えられる。 住所 :山形県東置賜郡川西町上小松東塩ノ沢 ④高畑城 東置賜盆地の中央東部、屋代川左岸の微高地に築かれた平城です。城の規模は推定 東西280m×南北120mほど、内部は東・西の2郭からなる複郭式の城館だったようです。周囲は土塁(伝承では幅10m×高さ3-4m)と幅10-15mの濠で囲まれ、虎口は北と西側に設けられていました。現在、城址の大部分は高畠小学校の校地、周辺は民家敷地になっていて、遺構の大部分は消滅していますが、唯一 南側の濠が部分的に残存しています。同地は古くから置賜盆地から白石に繋がる七ヶ宿街道の置賜側の入り口に位置し、陸奥ー出羽間の交通の要衝地になっています。 築城時期・築城主体ともに不明。一説に平安末期、奥州藤原氏の一族 藤原季衡の居館があったとも。通説では康暦2(1380)年 置賜に進攻して長井大江氏を滅ぼし置賜郡を支配下においた伊達宗遠、儀山政宗親子が、伊達氏の置賜統治の拠点として築城したと伝えられています。その後、永禄年間(1558-70年)から天正18(1590)年まで伊永禄年間(1558-70年)から天正18(1590)年まで伊達氏の重臣小梁川が居城し、上杉時代直江兼続の家臣春日元忠が城代として居住したとされます。元禄2年(1689)年、屋代郷が米沢藩領から幕府領になったことから高畑城は廃城となりましたが、明和4(1767)年織田兵部少輔信浮が上野国小幡から高畠に転封し、高畑城は高畠織田氏三代64年間の居城となりました。 そして天保6(1830)年、織田信美が天童に陣屋・藩庁を移したため、高畑城は御役屋を残して破却されました。 ⑤二井宿峠(伊達往還道・御城米の道資料より抜粋) 七ヶ宿のひとつである湯原から羽州街道とわかれ二井宿峠を通る二井宿街道を進むと高畠に入ります。二井宿峠は中世と近世・江戸時代、幹線横断道の二井宿街道の要所でした。 又、儀山政宗時代、伊達郡の西山城と高畠の高畑城の二つの拠点を結ぶ接点でもありました。その後、天文の乱を経て晴宗時代に伊達の本拠地を舘山城に移しましたが福島県信達地方や宮城県南部地域はは勢力圏にあり二井宿峠の重要性は変わりませんでした。 しかし、貞山政宗の岩出山移封によりその歴史的役割は終了致しました。 経済面からみると江戸時代天領から運ばれた「御城米の道」として二井宿峠は大きな役割を果たしていました。 特に年間9000俵近かった屋代郷米の輸送路でもありました。 又、帰り荷に積まれた塩や塩魚・干物類、古着等や桑の木の肥料にする鰯を干した乾鰯(ほしか)を運び、屋代郷や信達地方の養蚕業を支えました。 その意味でも二井宿街道・二井宿峠は「桑の道・糸の道」だったといえます。 ※伊達家御四代治家記録  ・性山公  5巻 照宗(16代)  ・貞山公 39巻 政宗(17代)  ・義山公 10巻 忠宗(18代)  ・雄山公  3巻 綱宗(19代) 以上 監修:たかはた伊達の会会長 島津憲一氏

伊達三日月街道ツーリズム 伊達三日月街道活性化協議会

伊達三日月街道ツーリズム

Date Crescent Highway=DCHの開拓 (Road Of Lord=王の道) ➡歴史・農水産物・伝統工芸品・自然・文化・芸術・スポーツ等の地域資源の発見 地域資源及び観光産業の付加価値向上      ⇓ 地域経済全体の活性化 ※地域創生は一過性の仕掛けでは無理で持続性・継続性の検証が不可欠となる 地域創生施策の自発的発展 ⇓ Emotional Value(感情価値)の五大要素が不可欠 ⓵SENSE  感情的(感覚)―五感を通して感覚に訴求経過価値 ⓶FEEL   情緒的(喜怒哀楽)―顧客の内面にある感情を刺激する経験価値 ③THINK   創造的(考える)―顧客の創造力を引き出す経験価値 ④PASSION  情熱の発見―新たな発見により顧客の情熱を引き出す経験価値 ⑤RELATE   関連性・交流―集団や文化との関わりによる経験価値 ⇓ リピーター・贔屓(ひいき) ・リピーターの旅行先選択 ⓵口コミで評判がいい         ・良い宿がある(ソフト面)                                              ...

伊達三日月街道活性化協議会R5事業計画 伊達三日月街道活性化協議会

伊達三日月街道活性化協議会R5事業計画

①現状及び解決したい問題現在、当該地域は既存の名所、旧跡、自然、歴史や集客力のある程度ある小売りやサービス他体験型の多様な生業を営んでいるお店等はあるが地区としてのアクセス方法や知名度不足により交流人口や新規顧客来場の面では頭打ちの状況であり地域としての一体感も不足していた。 ② 事業内容伊達三日月街道延伸により、街道地域の宝(伝統食・名所旧跡・作法・名物・民謡・工芸品・古道他)の掘り起こしや多様な形態の小売り・サービス・体験施設の情報発信及び地域等により地域連携を図り地域活性化・交流人口増・知名度向上を図る為に下記の事業活動を行っています。                                                          ◎地区共通さきがけ事業として(代表主導)・初年度は街道沿い地区の歴史・文化・名所旧跡・名物及び割引サービス付き店舗・施設紹介したBrand     Mapを2000部作成配布。(赤芝・舘山・遠山地区)(広幡・六郷地区)(川西町小松地区) 終了。 ・2年度はBrand Mapを活用したスタンプラリー実施(期間約半年間)。                                             <実績>(赤芝・舘山・遠山地区)/延べ参加者242名 (広幡・六郷地区)/延べ参加者78名   地区主要活動(地区長主導)                  ・3年度目以降各地区の特徴を活かした地区域内自主活動に移行継続(地元学生参加促進)。  -(赤芝舘山遠山)/三年間自主活動中  -(広幡六郷)/塩井地区加入推進中                                                                     ③協議会全体活動                                                                  ⓵(食) -伊達家や伊達政宗に因んだ商品や料理コースの開発普及支援  -寺院と料理店のコラボによる精進料理メニュー開発  -戦国の料理創作(勝つための食の極意) -コラボ企画開発食品②(ツアーガイド) -新奇な地域の宝を活用したツアーの提案と行政と連携した有料ガイドの掘り起こしと育成Ⓐ会員制旅行会社 Ⓑ全国規模旅行 Ⓒ地方新聞社グループ旅行会社                                                               ③(SNS)/ HP・FB・Twitter等を活用した情報発信強化 HP-段階的整備。FB-グループLINEから転用活用                               ④トータルイベント(歴史講演会・紙上座談会・スポーツ行事・教育研修含む)の企画、実現 ⑤グッツ作成配布(のぼり・クリアファイル・ポスター等)   ⑥その他 小学生対象事業の検討(社会教育)                                            今後上記の活動の充実発展を図り協議会全体の活性化を行っていきます。                                                                   ◎マスメディア(山形新聞・河北新報・読売新聞・NCV) メディアとの連携強化(2023年4月~2023年8月) 協議会事業活動紹介記事掲載7件、正会員・賛助会員事業所活動記事4件)③ 期待する効果(事業目標)現在、協議会を設立して4年目を迎え街道延伸により団体規模(正会員31名(事業所)・賛助会員20名・アドバイザー7名・連携団体7団体 4/13時点)と確実に拡大しつつあります。当該地域(街道)の掘り起こされた資源の活用等全体事業に結び付けながら協議会の活性化と公益法人に準じる活動を行っています。(SNS・広告宣伝)又、将来の情報公開の観点からも全世代にアピールできるスマホ対応のHPを作成運用し又、正会員・賛助会員事業所や連携団体(行政機関含み)や県内外行政・主要観光事業所とリンクをはり当協議会活動を紹介し当該街道の交流人口増に繋げていく情報発信の効率的ツールとしてスマホ用HP作成運用や広告宣伝活動(のぼり・クリアファイル他)は今後の協議会活動に必要不可欠なものです。(広報) 新たな動きとしてこの度、小野川温泉内に完成した「伊達な里情報歴史館」にみられるように協議会の目的に則ったサテライトオフィスによる協議会の情報発信も重要です。

伊達三日月街道PJきっかけ 伊達三日月街道活性化協議会

伊達三日月街道PJきっかけ

プロジェクトの発端は生まれた町の知名度の低さだった。地域内には個性的なお店や事業所もあり、ほどほど繁盛していたが地域連携すると、もっと多くのお客様が生まれた街に来てくれて知名度アップするのではないかと単純に考えました。 点(店)から線へ線から面へという組織連携の最適化により付加価値を生み出していけると考えました。 一人で出来ないことは二人で。二人で出来ないことは三人でと似た発想です。 私の先祖が伊達家に仕えていたことや、伊達政宗が生まれて25歳まで過ごした舘山城も近いところに住んでいることから伊達家、伊達政宗とゆう切り口で地域リンクが図れないかと地図を見ていましたら仙台が近くにあることを再認識し伊達政宗の生誕地舘山城から終焉の地仙台城をむすぶことにしました。 あとは伊達家に関係した地域を繋げ自然に伊達三日月街道(サムライロード)が出来上がりました。 但し、当協議会は伊達家や伊達政宗を顕彰する組織ではありませんが地域の宝や人的資源を活かした活動と街道全体活動を有機的に連携しながら交流人口増に繋げ、三次元的成長が可能な組織形態が当協議会の特色になります。 プロジェクトがスタートして4年目をむかえ、改めてスタートに立ち返り ⓵過去と未来を繋ぐ街道開拓 ⓶自ら考え・自ら行動・話し合う集団 ③各地区の集合体が協議会 ④伊達三日月街道へのファン作り ⑤地域課題解決 上記のことを関係者の皆様と共有して前進していきたいと思います。 以上 伊達三日月街道活性化協議会 代表 進藤俊彦

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